協会誌「大地」No47

エイコウコンサルタンツ(株) 山内 一晃

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25.「歴史の扉─青森県会津斗南藩─」

各地方に伝わる歴史や伝説。私が住む青森県にも、当然のごとく、歴史や伝説があります。

例えば、伝説のようなもの(ここでは、敢えて「・・・のようなもの」としておく。)

・新郷村のキリストの墓

イエスはゴルゴダの丘の十字架で処刑されたことになっている。ところが伝説では、処刑されたのは弟のイスキリで、逃れたイエスは日本に渡来し、新郷の戸来(へらい)に住み、生涯を閉じたというものである。また、地名の戸来は、ヘブライが基と言われている。

・外ヶ浜町(旧三厩村)の義経寺(ぎけいじ)と厩石(うまやいし)

義経は、平泉の衣川で藤原泰衡に殺害されたことになっている。ところが伝説では、義経は難を逃れ、名を義行あるいは義顕と改め、この地まで来たという。ここから蝦夷地へ渡ろうとしたが、海が大時化(おおしけ)で渡海できない。3日3晩、厩石に登り観音像に祈ると、満願の朝に白髪の翁があらわれ、3頭の竜馬がいるという。義経は、その竜馬に乗って、無事渡海したという。また、この地名は、その伝説から生まれたと言われている。ここでは、有名な人物にまつわる話をしましたが、各地にはこれ以外もたくさんあります。

先日、ある記事で、「聖徳太子は実在していなかった。」という記事を見ました。また、皆さん、常識のように覚えた「いい国造ろう鎌倉幕府」で有名な鎌倉時代の年代が1192年ではなく、その前後ではないか?となっています。私が子供の頃、もっとも有名な人物(高額なお札といえば、聖徳太子であり、いろいろな意味で、あこがれでした。)や有名な説が覆される現在です。

このような、伝説ももしかしたら事実かもしれないと思うと歴史のロマンを感じます。

次に、実際にあった歴史の中にも、いろいろなことがあります。例えば、

・青森市の縄文時代を飾る三内丸山

近年の大規模な発掘調査で有名になったが、この遺跡の発見は意外と古く、弘前藩の諸事項を記した『永禄日記』元和9(1623)年に最初の記載が見られる。縄文時代の認識を大きく改めるような発見が多数ある。

・「日の本将軍」に任命された下国安藤氏

五所川原市(旧市浦村)の十三湖(じゅうさんこ)付近は十三湊(とさみなと)言われており、そこを治めていた安藤氏は幕府から「日の本将軍」に任命されていた。ちなみに「日の本」とは蝦夷ヶ島の太平洋側を意味することで、当然ながら「日本」の意味ではない。

・浪岡御所「浪岡北畠氏」

南北朝内乱の末期に津軽浪岡の地に 入った浪岡北畠氏は、室町時代に幕府・朝廷から伊勢国司北畠の一族として、中央貴族並みの身分を認められた上に、足利一門と同じ「御所」の称号を許されていた。このように、歴史の中には、学校で習う教科書には載っていない、地方独自のものが多数あります。

このような地方の歴史の中には、地方の繋がりに係わるものもあり、その中から今回は、私の独断と偏見により、「斗南(となみ)藩」について、少し詳しく述べたいと思います。

「斗南藩」は青森県下北地方に明治2年からあった藩の名称です。石高は3万石。明治3年には実子容大(かたはる)が斗南藩知事になっているが、3歳のころです。

明治新時代に戊辰戦争で敗れ、会津の人々が新政府の見せしめで移住させられ、飢えと病に冒され、多くの犠牲を出したといわれる。28万石から3万石になったことでも大変なことであるが、実収は7千石だといいます。それが「斗南藩」である。

この「斗南藩」については、会津の人でも知らない方も多いと思います。

なぜなら、会津では「斗南藩」を公然と語ることは、タブーとされた時期もあり、ふれて欲しくない歴史でもあったようです。その証拠に昭和16年に会津若松市が刊行した『若松市史』には、「斗南藩」の存在が一行も記述されていなかったようです。

会津は北の最重要拠点として、元々有力な武将を輩出している。(織田信長や豊臣秀吉にも認められている蒲生氏郷も会津を治めている。)江戸時代末期の会津藩も幕府方徳川家縁の松平容保(かたもり)が藩主であった。

この松平容保は、ただ徳川家縁のものではない。江戸末期、治安がもっとも悪くなっている「京都守護職」にも任命されており、当時、若手藩主のホープで、将軍から注目されていた。また、筆頭家老の西郷頼母(会津に行ったことのある方は、知っていると思うが、「会津武家屋敷」はこの人物の居宅であり、「姿三四郎」のモデルになった人物としても有名である。)は、「会津の大石内蔵助」と評されるくらいの知略にすぐれてる人物である。

このような人材がいる会津藩は維新志士にとって、もっとも脅威なところであった。

実際、戊辰戦争では、白虎隊でも知られる通り、かなりの抵抗を行ったようである。

会津のことを記すと長くなりそうなのでここらで打ち切るが、まさにこの土地もいろいろな歴史を持ったところなので、会津のことは次回、機会が合った時か地元の方にお任せしたい。

このように、徳川家の一門であり、幕末若手藩主のホープである松平容保以下会津藩の要人が本州最果ての地、下北に来たのですから並大抵のことではなかったと思います。下は資料から抜粋したその時の絵です。

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斗南へ移住する藩主容大・容保父子

会津にとっては、厳しく、忘れてしまいたいような歴史ですが、青森県にとっては、大変貴重なものでした。

日本初の洋式牧場をこの地に開いたのは、京都時代、会津藩公用人を務めた広沢安任(やすとう)氏でした。この方の業績を称え、青森には「道の駅みさわ斗南藩記念観光村先人記念館」があります。

また、ある時期、この付近の小学校の教員は、多くが会津人だったそうです。(ちなみに、会津の教えは、とても有名です。「ならぬものは、ならぬ。」とか「会津日新館」は、かの有名な福沢諭吉も見学に行き、自身の参考にしたそうです。)

私がいる八戸の市長も2代目は会津藩士の子弟で、三沢、むつの市長も何人かの会津人の末裔が務めてきたようです

青森県知事も輩出しました。

五戸町では、家老だった内藤介右衛門や倉沢平治右衛門らが、地域の若者に学問を授け、多くの人々に慕われていたそうです。

このように、多くの会津の人が青森の発展に貢献しています。

我が県の特に、下北、上北、三八地方には、「会津衆」という言葉が残っており、そこには尊敬の念が込められているということです。

本このようなことを見聞きすると、歴史の中には、計り知れないものを感じます。文

かく言う、私も会津若松には、5年ほど住んだことがあり、このように地域の歴史に多少なれど興味を覚えたのも、その5年間があったからこそです。

また、私個人も少なからず会津人の恩恵を頂いております。会津在住の5年間で、会津の方と結婚し、第1子も会津で生まれました。

第二の故郷になりました。

これも歴史と言う“壮大なロマン”と思うのは、私だけでしょうか?

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