明治コンサルタント(株) 東北支店長 六坂 明夫 |
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平成17年の4月から東北支店に配属になりました六坂(むさか)と申します。まだ2年弱の新参者ですが、秋田には昔から縁がありました。その縁の部分と、秋田に来るまでのことと秋田で感じたことをお話しをさせて頂きたいと思います。
大阪市内で生まれ、市内の幼稚園に通っている時でした。私は「ろっぺいさん」とか「むつひらさん」と呼ばれていました。それは苗字が「六平」と書いて「むさか」と呼んでいたからです。昭和の或る時期にだけ改姓が許されたことがあり、父は親戚の反対を押し切って、六平を六坂に変えたんだそうです。
両親は秋田の県南出身で、六平という苗字のルーツが此処にあります。幼い頃から聞かされていた話では、6人の平家の落ち武者が「むつあか」と呼ばれていて、それが変化して「むさか」になったということです。平家の旗印は「赤」ですから、ムツアカなんですね。平家の落ち武者にまつわる話はあちこちに有るので、この伝承は半分だけ信じています。
関係ないですが藤原紀香も平家の流れを汲むとか。そういう話を聞くと、ムツアカの話も3/4は信じたくなります。悪役俳優の六平直政氏も遠い遠い親戚の様です。
北海道に居た時は、関西への帰省は列車でした。東京を経由すると高くつくので、日本海廻りの白鳥や日本海を利用することが殆どでした。中でも景色が見られる昼行の白鳥に乗ることが多く、山が迫り出した各県境の海岸を飽きず眺めていた記憶があります。また当時はまだ美しかった西目海岸の松林の向こうに、夕日に照り返された日本海が見え隠れしている景色も、下りの白鳥の中から必ず眺めた風景の一つでした。
もう一つの景色は、雪に写った列車の灯りです。まだ小さい頃、大阪で一緒に暮らしていた叔母に連れられて、何度も急行日本海に乗った記憶があります。線路脇の雪の土手に、列車の窓の灯りが遠く近くに踊る様に写っているのを、窓に手をかざして眺めていた幼い頃の夜行列車の旅の記憶。今でも、その情景が浮かび上がってくる私の心象風景です。
入社後に大阪支店に配属となり、それから約23年間、大阪にいました。大阪では2年目に土質試験室を担当し、その後に弾性波探査が関係する業務を担当したので、自然とトンネル関連の業務を担当することが多くなりました。ある時担当した北陸新幹線では、水文環境調査として地質踏査や資料調査や水源調査などがなされていました。当時の鉄道技術研究所の資料などを読みあさり、水文調査でトンネル湧水量の概算や、トンネル渇水影響圏のラフな影響予測を行う方法を覚えました。
トンネルを掘るとどうしても渇水が生じます。その渇水範囲とトンネルへの地下水流出量を予測することによって、周辺の水源・水利用に与える影響範囲・影響量を予測し、その対策を検討しておく必要があります。こういった水文調査を切口にして、幾つかのトンネルの地質調査を行いました。
中でも最も大規模で印象深いのが、大阪府と奈良県境の生駒山地を貫く「阪奈トンネル」です。延長5km少々のこの道路トンネルは、第一次オイルショックで一旦途絶えた後、約20年前に復活し、その後の10年間にわたって水文調査、地質調査、渇水問題検討を行ってきました。
ここでの水文調査や施工中の井戸調査は興味深いものでした。工事施工中に生じる地下水位の低下や思わぬほど遠くの水源での影響や、それらの影響判定をどうするかといった問題など、様々な課題を解決していかなければなりませんでした。そして、山頂付近の水田の用水をどう確保するかといった問題など、業務を超えて事業に関わる水の問題の多くを、計画から施工までを通して携わることが出来て、非常に良い勉強になったと思っています。
また阪奈トンネルの調査期間中に、忘れられない事故が発生しました。本トンネルの約500m北側に建設中の鉄道トンネルの切羽が抜けて、約80m上の地表に直径30m程度の穴が開き、大量の土砂や人家を呑み込んだという事故です。
生駒山麓には生駒山塊の隆起に関わった活断層が存在している為、それとの関連に焦点を当てて事故の原因を検討し、当トンネルでの事故防止にフィードバックさせる必要がありました。
事故が報じられて直ぐに現場に向かいました。空にはヘリコプターが飛び交い、間近に近づけない状態でしたが、大きく開いたすり鉢状の壁の一部を見ることが出来、切羽崩壊の恐ろしさを目の当たりにしました。
大阪支店在任中での最も大きな出来事は、「阪神・淡路大震災」でした。
1月17日の早朝、テレビを点けると最大の震度は京都の北方でしたが、神戸の震度が伝わっていなかったのが後日問題となっていました。
震源地が神戸付近でビルが倒れるなどの被害が出ていることは出社してから初めて分かりました。震度5を体験して、また西宮や神戸市内の住宅の倒壊や被害の点検を通して、シェイクされた地盤が通常では説明がつかない様な変形をしていることや、民家の脆さ等を見せつけられました。また集合住宅の建て替えがいかに困難かということも、復興で浮き上がった問題でした。
当時、神戸に向かう電車が不通と言うこともあり、震災直後の大阪駅にはリュックを背負った人達が溢れかえり、誰もが歩いて神戸に入りました。その様な中で、震災直後の兵庫県の対応は迅速でした。余震が続いている中、十数社を神戸土木事務所に呼び集め、危険斜面等の点検・監視を割り振りました。震度4以上の余震があった場合や基準値以上の降雨があった場合は、夜を徹して現地で監視するという体制が何ヶ月も続いたのです。
消耗戦の様な業務でしたが、まさに「人の命と公共の財産を守る」という本来の役割を実感させてくれる業務でもありました。
秋田に来て思ったのは、「新緑の緑色が美しい」ということと、「溢れかえる自然が多く残っている」という2点です。
田舎だから当たり前だろと言ってしまえばそれまでですが、地元に長く住んでいる人達には分かりづらい事だろと思います。
護岸のない水辺の美しさや、関西や静岡で見慣れた杉林とは違った美しさなど、目を見張る様な風景です。秋田に居る間に、それらをフィルムに納めておきたいと思っています。
大阪を離れて単身赴任中に覚えた風景写真ですが、一時期撮影に出掛けられない為に道具が増殖してしまい、現在はレンズが43本と、それを取り付けるカメラが15台という重々しい状態です。その殆どがフィルムカメラなので、撮り貯めた画像をここに上げることが出来ませんが、最近はZeissレンズをEDS5Dに取り付けて手軽なデジタルを楽しんでいます。しかし気合いが入るのはやはりフィルムです。
最後に、恐らく各社様とも厳しい現状の中で奮闘しておられることと拝察いたします。業界にとって2007年が少しでも良い年になります様に祈念いたします。
霧の中の八森のブナ林