協会誌「大地」No46

国際航業(株) 阿部 恵子

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11.「女性からのひとこと」

幼少期、二歳上の姉を真似たくて始めたピアノ教室はヘ音記号の前に挫折、バイエルすら終了できなかった。小学生、野球部の男子よりリコーダーが吹けず、吹き真似で学芸会を乗り越えた。

そんな私が現在趣味といえるのが音楽である。聴き役ではないですよ、演奏しているんです。しかも今年で祝20周年です。

そもそもの始まりは中学校入学、嫌がる私を部員確保のために無理矢理吹奏楽部に姉が入部させたのです。

当時、私の通った中学校は吹奏楽部が名門で毎年コンクールでは県代表、部室のあちらこちらに先輩方の書き残した「目指せ!全国大会!!」「目指せ!普門館!!」※の文字。(※一昨年?日本テレビ「所さんの笑ってこらえて」を見た方はご存知かと、野球で言うところの甲子園のような所です。)

音感に恵まれていない私には未知の世界、まずい事になった・・・と落胆するしかありませんでした。「皆とスタートが一緒では間に合わない。」姉はコンクールが始まる夏までに私を使える人材にしなければと、入学式前の春休みから私を部活に通わせ、大好きな歌謡曲のレコードは全て没収、聴いてよいのはコンクールの課題曲と自由曲『S.ラフマニノフ・交響曲第二番』だけ!!の徹底ぶり。私以外の家族全員が一致団結し私の洗脳に励む日々がスタートしたのです。

なんとかコンクールメンバーには入れたものの、そもそも音感が鈍いのですから全てが容易ではありません。先輩に睨まれ、先生に嘆かれ、家では姉とおさらいをする毎日、よく耐えたものです。

こうして迎えたコンクール、次が出番とステージ袖で待機していると緊張のあまり涙がこぼれて止まらないのです。どんなに拭ってもあふれてとまらない。そのまま本番となり気がつくと課題曲・自由曲とも終わっていました。頭が真っ白な状態でステージをおりると、聴きにきていたOGに抱きしめられました。どうやら練習中に毎回ひっかかっていた小節も成功していたようです。我に返った自分にこみあげるゾクゾク感、頑張って良かったと心底思える事が本当に嬉しくてたまりませんでした。

この充実感と演奏しているときにこみあげるゾクゾク=鳥肌=感動、音楽が苦手なのは変わりませんが、自分にも出来たという自信と、また感動を味わいたくて中学校を卒業後も楽器を続けることを決めたのです。

しかし、問題発生。私が通うことになった女子校には管弦楽部はあるけれど吹奏楽部がありません。私が唯一奏でることのできる楽器、サックスは管弦楽では使わない楽器です。そこで私は一般の吹奏楽団に入団することを考えました。でもそのためには個人持ちの楽器が必要となるのです。私が欲しいバリトンサックスは、国産メーカーの安い物でも60万円もする楽器、ピアノとそう変わらない値段がするのです。大きさも半端ではないためアルトサックスかテナーサックスにしたらどうかと両親にはかなり説得されたのですが、どうしてもバリトンサックスが欲しいと懇願し、一年後、高校二年の春にやっと楽器を買ってもらうことができました。発注してから選定をしてもらい手元に届いたのが5月。興奮して眠れなかったのを覚えています。

この楽器と共に入団したのが、現在も在籍している一般の吹奏楽団です。当時は高校生から入団資格があり、大学生や社会人に加わり演奏をするのはとても刺激的なことでした。

中学生のときは一年かけて仕上げたような大曲を演奏会では何曲も演奏するのです。しかも週末のみの練習で。緊張感はたっぷりでした。また、この楽団で初のコンクール・全国大会のステージを経験することにもなりました。一般の楽団の全国大会は毎年開催地が移るため、北海道・広島・佐賀・・・等々

毎年修学旅行があるようで楽しくて仕方ありませんでした。(大人になって金欠に泣くのですが・・・)

また、出来るだけ良い演奏をと目指している楽団に入ったことで、有名な指揮者や演奏家の方と共に音楽を作れる機会に恵まれるのが本当に嬉しく感動的です。数年前には指揮者クリニックのモデルバンドを務めたことで、レナード・バーンスタイン最後の愛弟子としても有名なマエストロ、佐渡裕氏に指揮していただくという貴重な経験も出来ました。佐渡さんの指揮は本当に情熱的で、指揮棒に吸い込まれていく興奮は忘れられません。本当に素敵な時間でした。

このようにお話しをしていくと、さも私が「音感の鈍さ」を克服したように聞こえるでしょう。しかし人間そんな旨いことはいきません。やはり苦手なんです。でも、何より楽しい、演奏できるのが嬉しいのです。テクニック的におぼつかない、思ったように表現できない、穴があったら(掘ってでも)入りたい経験もたくさんしました。それでも続けたいと思うのです。中学生のときに初めて味わったゾクゾクが、良い音に包まれた時の、あの鳥肌がたつ感じがやめられないのです。

私は音感そのものが鈍い自分を充分に承知しているので、このDNAをそのまま継承しては大変だと思っています。また、私が挫折したピアノを自分の子供(まだいませんが)には是非弾けるようになって欲しいという夢があります。そのため、学生の頃から(結婚するならピアノが弾ける男性!)という絶対に譲れない大条件がありました。この条件をクリアする主人と楽団内で知り合い結婚したわけですが、私の鈍さに主人はいつもゲラゲラ笑っています。最近は笑いを通り越して哀れに思うらしく、何とかしてやりたいと家の中でも音程とりやリズムとりの練習をよくされます。「ほらこれの半音下を唄って!低いよ!」気がつけば、楽器を始めた中学生の頃と変らない、姉が主人に換わっただけで相変わらずの毎日が繰りひろげられているのです。(私、なんで楽器続けているのかしら?)著しく成長の遅い自分に呆れるばかりですが、好きこそものの上手なれ(上手じゃないけど・・・)石の上にも三年(私は十年・・・)

他人より出来るようになるのが遅いぶん、出来た時の嬉しさは倍なんです。さらに10年、祝30周年を迎えるころ、私はどんな音が出せるようになっているのでしょう?今よりも苦手意識は薄らいでいるのかしら?不安でもありますが楽しみで仕方ありません。

先日、父から「あの時おまえに楽器を買ってやって本当に良かった。」と言われました。思えば、ピアノもリコーダーもNGだった私に高額な楽器を買って与えるわけです。親としてもかなり悩んだうえでのことだったでしょう。子供の頃は私達に本音を話すことなどなかった父からの言葉に胸が熱くなりました。楽器を買ってもらった当時は、高い買い物を渋られているだけにしか感じておらず(やっと買ってくれた!)と思うだけでした。恥ずかしい限りです。親なりにどれだけ思案して決断してくれたのか、あの時自分の楽器を手に出来ていなければ、ここまで続ける意欲も音楽を通しての経験もなかったでしょう。この年齢になってあらためて感謝をしました。

いま私は新しいバリトンサックスを購入するために貯金を始めています。購入する際には現在使用している楽器を下取りに入れることが出来るのですが、いくら値がついても絶対に売ることなど出来ません。新しい楽器を手にいれても、この楽器と両親の思いを大切に、楽しく苦い音楽ライフを続けていきたいと思っています。

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