協会誌「大地」No45

川崎地質M北日本支社 原田 克之

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29.「よろしくお願いします」

1.はじめに

みなさん、初めまして。川崎地質(株)北日本支社の原田克之です。前任者、大庭の後任として本年1月1日付けで技術部長として仙台へ赴任してまいりました。

東北地方には、出張で何度か来た経験はあったのですが、住まいをかまえて仕事をするのは今回が初めてです。たまたま本記事を執筆する機会が与えられましたので、ご挨拶がわりに私の経歴を披露させていただきます。

2.学生時代

私は、生まれも育ちも大阪の東大阪市というところです。奈良県との境にある生駒山のふもとの街で、ラグビーのメッカである近鉄花園ラグビー場のあるところ、と言えばおわかりになるかたもいらっしゃると思います。古くは「河内」と呼ばれ、作家今東光が描いたように、とても高級とはいえない土地柄ですが、気取らないところが大好きな街です。

中学時代は陸上競技部、高校時代はラグビー部に所属するスポーツ好きの少年でした。でも、大阪はラグビー強豪校が多く、私の通う普通の公立校ではとても花園ラグビー場での全国大会には出られませんでした。

元来、国語と英語といった文系科目が苦手なため(かといって理数科系が得意でもなかったですが...)大学受験の際は理工学系、具体的には社会建設系を志望したことから、地元の農学部の農業工学科に進みました。ちなみに、皇太子殿下とは学年が同じですので、学習院に進めば「ご学友」になることも夢ではなく、高校のクラスメートには本当にその目的で学習院大学を受けた不敬なやつがいました。もちろん、落ちました。

大学では農業土木全般を学ぶ学科でしたので、土質力学や地盤調査関係は、専門課程のたくさんの講義のひとつとして学びましたが、特に興味のある分野ではありませんでした。そのうち大学4年生になりますと卒業後の進路を決めなければいけません。友人達と、大学院だ、公務員だ、ゼネコンだ、と進路を語り合っていたある日、指導教官である教授に呼ばれました。

「原田くん。川崎地質という会社から募集があるんだが、どうかね。調査関係のコンサルタントはこれから重要な技術領域だよ。」

と川崎地質を紹介されたのです。生まれながら優柔不断かつ他人の意見便乗派である私は、その場で「はい、そこにします。」と即答しました。卒研はコンクリート関係をやってましたので、教授が、なぜ私と川崎地質を結びつけられたのか、なぜ「土質調査」が向いていると判断されたかは、わかりません。でも、結果的に性格が軟弱な人間が専門も軟弱として24年勤まっているということは、教授の進路指導はやはり的確だったと、あらためて今、感謝しております。

3.大阪勤務時代

こうして目出度く(?)川崎地質社員となり、大阪支店技術部の土質担当課へ配属となりました。私が入社した昭和57年は、超ビッグプロジェクトである関西新空港関連の業務、例えば土取り場調査や建設サイトでの海上ボーリングがどんどん進められていた頃で、加えて大阪湾湾岸域の埋立事業も活発な時代でした。

ひよっこの私は関空関連の重要業務とは当然無縁であり、一般の埋立関連の調査・試験を担当しました。やっていくうちに、おのずと軟弱地盤解析も担当するようになりましたが、当時は市販の解析ソフトはほとんどなかったので、N88-BasiCを使って自分でプログラミングし、圧密沈下計算をしたものです。また、そのためには理論も一応勉強しなくっちゃと、ちょっとまじめな気分になり、最上武雄先生著の「土質力学」(そう、あの厚い本)をよく読みました。大体は、読みながらそのまま寝てしまいましたね。

4.東京勤務時代

大阪支店に勤務して12年経った平成6年春に東京転勤を命じられました。すでに結婚して子供も産まれており、親子での上京でしたが、そのときの心配事はふたつでした。

  1. 関東は地震が多いが、大丈夫か?
  2. 大阪弁で東京に受け入れられるか?

まず、@ですが、結果的に私が東京で暮らした12年間では大規模地震は関東で発生しませんでした。逆に、転勤の9ヶ月後、兵庫県南部地震が起こり、関西で大被害が出てしまいました。個人的には神戸にあった女房の実家が住宅の基礎にヒビ割れが入った程度で済みましたが、社会的には人的被害はいうまでもなく近代都市の構造物が大打撃を受け、それを目の当たりにした私はこれほどの被害が起こりうるものか、と、地盤工学に携わるものとして大きなショックを受けたことを覚えております。

次にAですね。東京で待ち受けるひとのなかでは「今度、転勤してくる課長代理はコテコテの大阪人らしい」との風評(?)がひろまっていることを事前にキャッチしていた私は、「じゃあ、東京では大阪弁は使わないぞ」と決意し、職場では努めて標準語を使うようにしましたが、アクセントは抜けませんね。でも、丁寧に話すようには頑張りました。気持ちが通じたのでしょうか、コテコテの大阪人はつき合い難いと予想していたひとたちの抵抗感が薄めることはできたようです。

これは、今回の東北転勤でも同じだと思っています。10年以上の東京生活でも私の大阪弁なまりは解消されず残っています。みなさまにとっても違和感があるかと思いますが、丁寧にしゃべるように頑張ります。

また、東京に着任した直後のことです。

あるとき、こんな質問をされました。

「大阪では一家に一台、たこ焼き器があるって本当ですか?信じられないのですが」

みなさまも、そんなものが各家庭にあるのかと異様に映ると思いますが、これはほぼ正解です。もちろん無い家庭もありますが、大阪で生まれ育った私のまわり、親戚・友人とも家にたこ焼き器があるのは普通でした。結婚するときも新居生活準備品のひとつでしたから。

5.海外業務

東京時代には、それぞれは短期間でしたが韓国や中国での海外業務も何度か経験しました。これは中国での話です。

軟弱地盤上に建設された工場で地盤沈下が発生し不具合が生じたというよくある話です。事前に圧密検討をした中国国内の土質試験業者に試験についてヒアリングをしたところ、中国の試験規格でも段階載荷圧密試験はある荷重を載荷し24時間後に次段階に進むとのこと。なるほどと思った私は、さらに質問しました。

「その24時間の間はどうするのですか?」中国人女性技師はまじめな顔で、「何をするのですか?」

「というか、その間の経時的なデータは取らないのですか?」

と聞き返すと、彼女は「何のデータを取る必要があるのですか?」

と、この日本人は変わったことを言うわね、という態度です。結局、圧密係数cv値とか、時間〜沈下関係という概念は中国にはなく、圧密試験結果もe〜p曲線(e〜logpではない)を報告するだけと確認できました。うーん、テルツァーギの一次元圧密理論は世界普遍と思いこんでいた私が甘かった、と思い知らされたものでした。

仕方なく採取試料を日本に持ち帰ってJIS規格で圧密試験を行いましたが、このケースでは単なる試験方法の違いではなく、ベースにある国民性や文化も含めた「国」が違うことの大きさを強く感じました。いろいろ考えると、中国では経済性評価を行うときに、もっとも安いものが人件費と用地費なんですね。平板載荷試験の反力なども何百という土嚢袋を人力で積み上げるのが普通らしく、人力では不可能なことだけに高価な機械を使う。また、この地盤沈下のことで工場の日本人関係者が頭を抱えているのを見て、「対策は簡単じゃないか、移設すればいいんだよ。土地はいくらでもあるから」というのが多くの中国のひとの感覚でした。

日本の常識は外国の非常識、またその逆も真なり、とよく言われますが、これは本当だな、というのが海外業務から得た印象です。

6.おわりに

このようにいろいろな出来事が24年間でありましたが、このたび、東北勤務の辞令を拝受しました。生まれたときから学生時代、そして就職後も親元で暮らし、そのまま結婚して所帯を持ちましたから、いつも家族が周りにいるという生活をしておりました。ところが家庭の事情もあり、仙台へは単身赴任となりました。

つまり47才にして生まれて初めてひとり暮らしをするという、うれしいような、こわい(?)ような事態となってしまいました。

これまでは無趣味人間でしたが、自然がいっぱいの東北の良さを堪能できるように、何か活動を始めたいな、と考えております。新参者ですが精一杯頑張りますので、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。

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