協会誌「大地」No45

(有)加賀伊ボーリング 工藤 順一

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17.みちのくだより秋田 おっとり秋田とけんか梵天

秋田県人は、一般的には「おとなしい」、「おだやか」、「おっとりしている」、「無口だ」などなど、良くも悪くもよく言われ、その時は「マァマァマァ・・・」とその場を切り抜けることも多い。

一方、秋田県の北部,鹿角地方では南部弁が、大館地方では津軽弁が、中央から県南の内陸部では京言葉が使われており、もしかしたら秋田市周辺では日本海を往来した通商船の影響による北陸地方の言葉も混じっているかもしれないなど、見掛け以上にいろんな性格の人が住んでいる土地なのかもしれない。

これらの中心地である秋田市の北東約20km付近に標高1170mの太平山が聳え、山頂には「太平山三吉神社」(奥宮と呼ばれる)が祀られており、秋田駅の東口から2kmの秋田市広面赤沼地内に「三吉神社」(里宮と呼ばれる)が祀られている。社伝によれば、673年(白鳳2年)に役小角が創建したと言われ、その後801年(延暦20年)征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征討の際戦勝を祈願して社殿を建立し、奉納したといわれる鏑矢は今に伝えられて神宝とされている。古くから薬師如来を本地仏とする薬師の峰・修験道の霊場として崇敬され、《力の神・勝負の神、勝利成功・事業繁栄》として全国から崇敬を集めている。

さて、この里宮である「三吉神社」では毎年1月17日に「梵天祭」が行われている。この梵天祭は秋田固有の祭事であり、秋田県内各地でそれぞれ特色ある梵天祭が行われている。

この梵天の形状としては、本体として直径80cm程度(上部に向かって次第に細くなる)、高さ約150cm前後の竹で編んだカゴに色彩豊かな布・錦をかぶせた後に中心の棒を取付け、ほうずき(頭の部分で一回り小さいもの)・鉢巻(わらを詰めた太さ10cm程度のもので、強さを表すため角状にしている)を本体に取付けた後に御幣・お守りをつけて完成となる。なおその他にも、古式に則った稲穂で作られたもの・銭を下げたもの・御幣で作られたものなど、さまざまな形態のものが奉納されている。

この梵天を神社に奉納する団体としては、もともとは「五穀豊穣」・「家内安全」を祈願する町内梵天が主体であったが、現在は「商売繁盛」・「社運隆昌」を祈願する企業梵天、「心身健康」を祈願する子供梵天などさまざまな団体が奉納しており、むしろ昔からの町内梵天よりも多くなっている。

この梵天には「三吉節」と呼ばれる梵天唄があり、各地で各梵天奉納者が唄いながら気勢を上げて三吉神社に梵天を奉納するために参集する。

このように、若い衆が互いによく競い、増産に精を出し、黄金なす実り豊かな秋を迎えられるようにと、年の初めに「五穀豊穣」を祈ることがこの祭の本来の姿であり、三吉神社の境内に入るや否や自分達で作った梵天を無事な姿で奉納するために先を争って押し合いを繰り広げるわけで、この押し合いがあまりにも激しいためにいまでも地元秋田では『喧嘩梵天』と呼ばれており、大小は別にしても毎年ケガ人も必ず出ているほどである。

ところで、私は生まれ育ちもこの「喧嘩梵天」発祥の地元で、それも梵天関係者からは昔から「いぢばんだんじゃぐ(一番の乱暴者)」と呼ばれていた(今でも古老はそう言っている)秋田市内の某・泉地区のとんでもない所である。地元同業者には「仏の工藤・・・?」と呼ばれているほど「無口で臆病?」な私が、自分でも驚いているがこの喧嘩梵天に毎年参加しているのである。

話はやや遡るが、毎年12月に同じ集落(今では3町内に分割された約1000世帯ぐらい)の有志に声を掛け、公民館に集合して2日にわたって10〜12人ぐらいで、年代は40歳代(まだヒヨコ)から60歳代(やっと大人)と血気盛んな連中(やや高齢化?)が、1年の中のこの時期しか逢っていないことなど忘れて集まり、1年の間にたまった身の回りのことなど話題(昼中で酒も飲まず、手先が忙しいにも拘らず)にしながら自慢の梵天(毎年85本前後奉納されるが、最も伝統に基づいて製作していると自負している)を作っている。

梵天奉納日である1月17日の8時頃、町内の中心地(主道路の交差部分)にこの梵天を飾り、20〜30人ぐらいの参加者が次第に集まってくる中で他町内から揃って来る梵天を、炭をガンガン熾しスルメを焼き熱燗を飲みながら待ち受ける。10時前後に他町内から8本前後の梵天が到着するが、挨拶代わりとして村札(厚さ3cm・巾25cm・長さ50cmの厚板で、取ってを付けたものに祈願内容・神社名・奉納者名等を墨書きしたもの)をぶっつけあった後、双方から参加して押し合いを数回行う。この時間帯には我々地元の昔のお嬢さんや若衆が孫を連れながら見物していることから、1日の始まりとして絶対に負けられない(相手は梵天8本、総勢100人ぐらい、当方梵天3本、40人ぐらいで、相手が気を使って同人数ぐらいで行う)戦いである。この挨拶が終わると我々の梵天を先頭に後ろに他町内梵天を一列に従えて三吉神社に向かうが、この風景は今も昔も変わらない光景で、これだけの梵天の数がそろった風景は他地区では見られない光景である。そして神社の参道入り口には他地区から来た梵天が待機していることから挨拶(この段階で興奮気味なので警察官も待機している)を行い、全梵天・全奉納者がそろって参道を進み、神社が近づくにつれて腕時計・メガネ・マフラー・帽子等をすべて身の回りからはずしながら気勢を上げ、さらに興奮状態に入っていく。

最初の鳥居から境内に入るまでは巾2mくらいの緩い上りで参拝客(見物人)の目の前を駆け上がるが、この段階ではまだ前者と多少の距離を置くことが出来るが、途中で90度右に曲がって広い石積階段(おそらく15段前後)を上る途中の位置取りで押し合いの中心へ入れるか弾き飛ばされるかが決まる。この階段を上りきると広い境内で、本殿には前に梵天を奉納した連中が我々の梵天を潰すために残っており、周りには一般参拝者の見物客とこの見物客が押し合いに巻き込まれないようにと警察機動隊が我々との間に肩をつけるようにして警備しており、この衆目の中で自分たちの梵天を無傷で奉納するために夢中で本殿前に殺到し、境内を波となって激しくもみあいながらジリッ・ジリッと進むさまは勇壮そのもの(客観的に見て、中に紛れ込んでいる我々は死ぬ思い)である。本殿前の巾5m程度,高さ僅か3段の階段を上るときが最も危険で、ここに数百人が殺到するもののこれを上から押し戻しながらかつ他町内の梵天を丸裸にして押し潰そうとする(毎年目も当てられないほど気の毒な梵天が必ず数本は出る)連中がいるわけで、ここでは体が宙に浮いた状態で足が地面についてなく、自分を支えるものとしては目の前の人の首や肩に必死にしがみつくくらいで、ここで転んでしまうと最後まで踏んづけられながら両手で自分の頭を守ることしか出来ない悲惨な目にあう。もちろん、足が地面についてなくとも後ろから押されて少し前に進み、前から押し戻されて後ろへ戻るなど一進一退を繰り返しながら、かつ梵天に縫い付けてあるお守りを捕ろうと延びてくる手を払い叩きながら梵天を奉納するわけで、この時の人の圧力の強さとやらは筆舌しがたいほどである。

冒頭で述べた「秋田人の気質」とは全く反対の一面を見せる行事であり、季節に関係なく時々「フッ」と思い出すたびに「ザワッ」とする。

因みに「無口で臆病?」な私の場合、毎年参加しながらも今振り返ってみると非主流派(?)に属するようで、中心部で喧嘩をしているよりは脇に弾き飛ばされて足元に転がっている人を助け起しているほうが多いように思い起こされる。

「秋田の人は恐ろしい一面を持っているものの、普段は面に出さない」だけなのかもしれない。各社の営業担当者に梵天の名を借りてご報告しますが、実は秋田人は恐ろしいのかも。

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