|
この4月から、佐々木の後任として仙台支店に着任しました佐渡と申します。広報委員(大地編集委員)として協会活動にも参画させていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。紙面をお借りして、簡単な自己紹介をさせていただきたいと思います。 1.自身のはなし (1)生立ちなど 昭和39年8月、東京オリンピックが開催された年に、双葉百合子のナツメロ「岸壁の母」で有名な、引揚げと造船の町、京都府舞鶴市に生まれる。母親の遺伝子の影響で、物心ついた頃からの阪神ファンである。 舞鶴港は、日本海沿岸のリアス式海岸として有名な若狭湾の一部であり、実家から自転車に乗って5分で、アジやタコが釣れ、サザエが採れる埠頭や岩場に行くことができたし、同じ時間をかけて、カブトムシやミヤマクワガタが捕れる山林に行くこともできた。 高校を卒業するまで、舞鶴を出ることはなかった。中学・高校時代はバスケットボールに精を出す傍ら、自然科学全般が好きで、何かと興味を持ったものを、とことん収集する癖があった。この収集癖は、色々とかたちを変えながら、現在も進行形である。 大学時代、初めて実家を離れ、やはり日本海沿岸の金沢市に6年間住んだ。とても住みやすい街であった。理学部地学科に在席したが、卒論・修論のフィールドは沖縄県の宮古島近傍(伊良部島)であった。延べ1年半余り、伊良部島に滞在していたと思う。隆起サンゴ礁(琉球石灰岩)を研究テーマにしていたため、陸を歩くと同時に、しょっちゅう海に潜っていた。 当時、同島で実施されていた調査ボーリングの助手アルバイトもやった。大学時代の経験で、最も現在の仕事に役立っていることは、この頃のアルバイト経験であったことは間違いない。 (2)経歴など 大学を卒業し、平成元年に住鉱コンサルタント(株)に入社、東京支店に配属された。社会経験17年目の、まだまだ若輩者である。就職内定後の1月頃、説明会か何かで東京を訪れた際、街角で、きれいな女性の方から『“平成”という新しい元号についてどう思われますか?』といったテレビインタビューを受け、「都会は違うなあ」と、ひどくカルチャーショックを受けた覚えがある。 余談であるが、入社当時から平成10年頃まで、当社の東京支店は新宿歌舞伎町の2丁目にあった(現在は上野)。再び大きなカルチャーショックを受け、多大な授業料を支払うはめになったことは言うまでもない。現在の仙台支店は国分町にある。当社のカラーが窺い知れるというものであるが、単身赴任で仙台に在住していることもあり、これまで以上に多大な授業料を支払うはめになるのではあるまいか。 入社後は、基本的に東京支店に席を置きながら、電力土木関係の会社に2年、国の研究機関に2年、合計4年間の出向を経験した。ダムや地下空洞を学び、防災を学んだこの4年間は、自分自身にとってきわめて貴重なものであった。 この時にお世話になった方達が、東北にもたくさん在住しておられる。あらためて、皆さんにご挨拶に伺わねばと思っている。 (3)自身のルーツ 私の祖父は、商用船の船乗りであったが、もともとは秋田県大曲市に生まれ育った。当時交易のあった舞鶴で祖母に見初められ、婿入りして定住したそうである。したがって、「佐渡(さど)」という比較的珍しい名字は、実は大曲産である。 であるにも関わらず、私自身は祖父の実家を訪れたことがない。有名な大曲の花火大会に胸躍らせつつ、雄物川を遡り、双子の息子達と妻を連れて、自身のルーツを訪ねることが、現在のささやかな目標である。 2.地震のはなし (1)阪神大震災のとき 舞鶴時代の友人や親戚の中には、大阪や神戸方面に在住の者が少なくない。阪神大震災があった平成7年1月17日の前日まで、私の妻は友人の結婚式に出席したついで、神戸の三宮付近にいた。 妻が帰宅した翌朝、とても信じられない、常識を超えた映像が延々とテレビに映し出されていた。昨日まで一緒にいた友人、親戚、同僚、誰とも全く連絡がとれず、遠方にいてどうすることもできないもどかしさ。それきり2度と連絡がとれなくなってしまった知人もいる。所々でビルが倒壊・圧壊し、高速道路までもが横転している。堤防や護岸は破断し、波打ち、崖は各所で崩れ落ちている。 現在は東北在住の技術者の方も、多くの方が何らかのかたちでこの震災に関わられたのでないかと思う。莫大な犠牲を払い、地震国日本に住む私達は、多くの教訓を得た。震災後、河川・道路共に、土木分野の多くの基準や指針の見直しがなされたことは周知の通りである。 (2)中越地震 あれからちょうど10年の月日が経とうとする昨年10月、新潟地区を中心とする中越地震が発生した。山間部での局所的な強震が、多くの土砂災害をもたらし、再び、かけがえのない多くの人命や、社会資本が損なわれたことは記憶に新しい。 地震調査委員会によれば、M7.5以上の宮城県沖地震が今後30年間のうちに発生する確率は99%とのこと。それは今日・明日にでも間違いなく起こり得るのであろう。 日頃から地質調査や土木設計に携わっている私達は、少なからず地震をはじめとする自然災害に対する専門家集団である。私達だからこそできること、やるべきことがまだまだあるのではあるまいかとつくづく思う。 それは一般の方への啓蒙であり、携わった業務や、公の場での防災に関する主張であるかもしれない。そして何よりも、地震のような自然災害が発生した際に、組織的かつ速やかな対応ができることが重要であり、当協会のような技術系団体の存在意義の一つではないかと、個人的には思う次第である。 3.自信のはなし (1)自信の源 これまでの16年余の業務経験の中で、地下深部に建設される地下発電所や、備蓄型の岩盤タンクといった大規模地下空洞から、一般的な平野・河川、台地・丘陵、山岳地の峡谷・斜面を経て、富士山頂付近の大規模崩壊地まで、機会に恵まれ、比較的あらゆる分野の現場を経験することができた。 本来、技術者として確固とした専門分野があるべきであろうと考えるが、浅くとも幅広な経験も、同様に技術者としてかけがえのないものである。ゆえに、このことは大変に幸運であったと思うし、技術者としての多少の自負・自信の源ともなっている。 これまでの経験の中で、あえて自分自身の専門分野を上げるとすれば、トンネルに関わる調査分野であろうか。思い起こしてみれば、毎年、必ず1〜3件の現場を経験してきた。軟弱地盤中の推進や都市トンネルから、軟岩・中硬岩を掘り抜く山岳トンネルまで。施工中のトラブルや事故にも、比較的多く携わることができた。 (2)現場好きの抱負 幸い現場好きであることには自信がある。どのような分野であれ、現場で自ら培った経験は、何ものにも変えがたく貴重である。体にもよいし、タバコも美味い。いまや、アナログ的な発想かもしれないが、調査マンは、年令に関係なく、やはり現場で考え判断し、現場で学び、現場で育つことが重要であると実感している。 この4〜7月にかけて、週の半分以上を出張に費やした(東京方面も多かったが)。 今後、東北六県の隅々までを訪れ、様々な土地柄に触れ、様々な人に出会い、様々な経験をすることを楽しみにしている。 もしも、どこかの現場や事務所、もしくは飲み屋街などで、この拙文をお読みになった方と出会うことができたならば、是非とも気軽に声をかけていただければ幸いです。 |
目次へ戻る |