新栄エンジニア(株)  縮 幸一
28.みちのくだより山形 控えめなふるさと自慢

 どの県においてもそうだと思うが、地域によって気候・風土、人々の気質まで異なるものである。そして日常生活上では、様々な不満があるにもかかわらず、こと人に紹介するとなると自分の住んでいるところが一番とばかりに自慢をしたくなる。私も例外ではなく、「置賜」という山形県南部の土地、そして生まれ育った「米沢」の町について「何といっても母なる最上川の源流の地だからな。温泉の魅力もはずせない。それに東京にも近いし」などと妙な自慢をすることになってしまう。

 自然の美しさについては、わざわざ東北の方々にアピールするまでもあるまい。

 アメリカのケネディ大統領が最も尊敬する政治家として名前を挙げた上杉鷹山公(米沢の人間は、ちゃんと「公」という尊称をつけるのを忘れない)についてはすでに、広く知られている所である。

 「米沢の味のABC 」すなわち館山の林檎、米沢牛、米沢鯉は観光の目玉としてテレビ番組などでも紹介されている。他に何があるのかを挙げていけば、観光ガイドブックのような通り一遍のものになってしまいそうだ。そこで別な視点を持つ人間に聞いてみることにする。

 県庁所在地の「村山」地区の「山形市」から嫁いで来た妻は、私が「当たり前だ」と思っていた事がいちいち面白いという。

 まず、彼女がこの土地に来て最初に発見したのは「公衆電話ボックスの地面からの尋常ならぬ高さ」だという。お立ち台でもあるまいに何故階段を上って電話ボックスに入らなければならないのか。

 もちろん、この段階では冬の積雪のことを知る由もない。また、道路から消雪の水の出る仕掛け。屋外の駐車場の一台分のスペースがやたらと広い。(ふん、どうせ田舎だよ。待てよ、車から雪を降ろすためのゆとりか?)市内を通る米坂線(米沢と新潟県の坂町を結ぶ)の不自然なカーブ、まんじゅうしか売らない店(しかも向かい合わせで商売をしていてどちらにもひいきの客があり、どちらもつぶれないという不思議)。そんなに需要があるのか、餅屋の多さ。保守的な町なのに市内の高校の制服がちょっと他では見かけない色(臙脂のブレザーの商業高校、カーキ色の私立高校)。どの小中学校に行っても体育館には「鷹山公」と「謙信公」の肖像が掲げてある。冷やし中華にマヨネーズって米沢が発祥の地なの?

 こんな重箱の隅レベルの指摘が私にしてみれば逆に新鮮である。この地に20 年も落ち着くと彼女も怪しげな米沢弁を駆使し、ネイティブヨネザワンのようにこの町に愛情を持つようになった。前述のものよりもう少しレベルの高い良さを見つけている。

 国宝「上杉本 洛中洛外図屏風」をはじめとし、上杉古文書、素人には値打ちがわからない膨大なお宝。今でもどこぞの蔵を探せばとんでもないものが埋もれているんでないかい?というのが彼女の見解だ。人物では戦国時代に兜の前立てに「愛」という一文字をつけた武将がいた米沢。(これは、直江兼続(謙信公に仕え、松川上流の堤防工事など城下の整備に力を尽くした人物。「トリビア」でも紹介された)のもの。かぶき者前田慶次郎が居を構えていた米沢。近代では、日本に「築地本願寺」のようなどえらいインド風の大寺院を設計した伊東忠太博士、民法学者の我妻栄先生(あの岸首相と東大法学部で一二番を競った頭脳)も米沢の出身である。豪快なヒマラヤの絵画で知られる日本画の福王寺法林先生、などいずれもユニークな顔ぶれである。

 庶民の生活がまたいい。ものを大切にいとおしむ心から生まれた様々な伝統工芸、糸偏の産業が栄えた城下町である。

 かわいらしい表情の素朴な土人形は、観光ポスターでも一役買っている。自然の恵みを受け、健康面でも優れた郷土料理。

 鷹山公伝来のうこぎ料理や冷や汁から、近年ブームのラーメンまで自慢の味は沢山ある。市民が総出で参加する上杉祭りや雪灯籠祭りはすっかり有名になり、似たような催しをしている所も多い。町の中に忘れ去られたように点在する古い建物。今だに残る茅葺きの屋根や土蔵。置賜の人が草木の恩恵に感謝し、供養のために建てた「草木塔」に見る心根のやさしさ、謙虚さ。
 数え上げればきりがないこれらの財産だが宣伝が下手なせいか、そんぴん(へそ曲がりというような意味)の気質のせいか、今ひとつ生かし切れていないのが米沢だと残念がっている。しかしそれもまた、この土地らしいことかもしれない。

 大きな山容を誇る吾妻・飯豊の山は、時には厳しい表情を見せながら、ここにしか咲かぬという可憐な花をその懐に抱いていたりする。私はふるさとのそういう人知れぬ静けさを好ましく思う。
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