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ことのはじまり 2001年の夏、もう4年も前のこと、中山美穂が出演するキリンビールのTVコマーシャルで紹介されて以来、山形県鶴岡市特産の「だだちゃ豆」が全国的な人気を博しブームとなった。そのお陰で、だだちゃ豆の中でも一番おいしい品種の「白山だだちゃ」は、当時需要に追いつかないのに加え、種泥棒まで続出した。 古来よりおいしい豆は門外不出のため、白山だだちゃの種は、一般の人が入手するのは先ず無理だからである。 当社の庄内営業所(山形県櫛引町)の敷地が有効利用されていないので、だだちゃ豆を作ったらどうかと話題にしたら、会長の一言で栽培することになった。 地元櫛引町の農家の指導を受けながら「だだちゃ豆」の栽培を始めたのが2002年の春からである。この物語は一人の地質調査技術者が土地が勿体ないという発想から、だだちゃ豆の栽培に挑戦した苦悩と喜びの日々の手記である。 1.栽培地の土壌と開墾の日々 栽培しようとした営業所の敷地は平成4年度に水田上に砂質土を50p前後盛土したものである。プロの農家なら栽培土を客土するところであるが、現状の盛土を開墾することにした。土壌診断としてpHを測定した結果、6.9であった。地元JAで指導する最適pHは6.0〜6.8でる。最適とは言えないが上限値に近いので土壌改良は行わないことにした。 だだちゃ豆を作付けしようと発想した時は、砂の盛土だから畑にするのは楽勝と高をくくっていた。予想に反して地盤工学的分類上の石と巨礫を多く混入しており、トラクターも歯が立たず、来る日も来る日も石の除去に手こずり、炎天下・雨の中、畑作りは難航した。 2.雑草茂る荒れ地を青葉の海原へ 昨年までの栽培品種と作付け面積・収穫量等を栽培実績として表1にまとめた。 2年目にはラッキーにも、種泥棒が出るほど貴重な「白山だだちゃ」の種・苗を地元の農家より分けてもらうことが出来た。これにより、全8品種のだだちゃの栽培に挑戦したことになる。収穫した豆は全社員に配布して食してもらったが、庄内5号だ、7号だといって配布したため、「台風みたい!」と言われた。実際の台風と違い、こちらは次々来る枝豆を喜んでもらった。 1年目は畝幅を1.0m、v2年目は1.2m、3年目は1.0mと0.9mの2種とした。畝間隔による日当たりの違いは認められず、管理面では、1m畝が良いようである。3度目の土寄せ期には枝葉は腰上まで成長する。この頃、約10aの枝豆畑の真ん中で作業していると、雲海ならぬ青葉の海原にいるようで、広々として実に気持ち良い。かつて雑草が生い茂る荒れ地が緑鮮やかな実りの地へと変貌し、道行く人からきれいだねと言われるまでになった。 1年目、2年目の種は種苗店から苗を購入したが、2年目からは種豆も取り、3年目は自前の種で栽培した。 表1にみるように枝豆は早生種〜中生種〜晩生種とあり、夏だけでなく秋口まで楽しむことができる。さすがに7品種を作付けすると後述の栽培工程に示すように、農作業をほぼ毎週する必要があり、本業に支障を来しかねないので、今年(2005年)は早生白山、甘露、白山だだちゃと早生品種の「越後ハニー」を新たに加えた4品種を作付けしている。 表1 だだちゃの栽培実績一覧
表2 初年度のだだちゃ豆栽培工程
(注1 )1 本当り収量は、種分を除いた収穫本数で除した値。 (注2 )白山とは白山だだちゃ品種で()添えは種をもらった農家の違いにより区別したもの。 3.鍬を使って土寄せ作業 栽培方法は苗を購入して定植する移植栽培とした。初年度の開墾から収穫までの工程を表2に示す。2年目以降は定植日がずれた形で他の品種が増えるだけで、同様に作業が続く。3年目は、定植日の2週間前に播種作業があり、発芽〜育苗の管理作業が増えた。枝豆の育ち方の特徴で、成長に伴い茎(枝)に根が出てくるため、茎の回りに土を寄せてだんだん高く盛り上げて行く(図@)必要がある。 この作業を「土寄せ」といい、通常開花までに3回行う。品種毎に次々にこの土寄せ期がやって来る。耕耘機で土を跳ね上げただけではうまく寄らないので、結局鍬を使って畝間の土を寄せることになる。子どもの頃母親の手伝いで覚えた鍬がここで役立つことになったが、この作業は腰の筋力との戦いである。 栽培して初めて知ったが、庄内5号とじろさくは花の色が紫で、他の白山だだちゃ等は白い花が咲く、たぶん原種のルーツが違うのであろう。 図1 土寄せのイメージ図 4.どちらかというと勘が頼りの施肥技術 枝豆の成功失敗は施肥にあると私は思う。もともと田んぼの畦などに植えていた位で、肥沃でない土壌でも育つが、施肥量がが不足するとたとえだだちゃ豆でもおいしくない。逆に施肥が多すぎると栄養が枝に行き、蔓になってしまい、莢に実が入らなくなる。おまけに、農家の指導によると早生品種は多めに晩生品種は少なめという。品種により施肥量を変える必要がある。こつは、土寄せするときの追肥で成長度合いを見ながら加減するという。定植前に施肥する基肥の初年度の実際量を表3に示す。早生はやや蔓気味になったが十分に実が入りおいしい豆ができ、中生の庄内5号と晩生品種のじろさくは非常にうまく行った。とても初めての畑とは思えないくらいである。 使用する肥料は毎年変えるのもまた秘訣である。品を替えてN.P.K(チッソ、リン酸、カリ)が所定の量になるようにする。 初めてと言う点ではもう一つ悩まされた。初めての畑の土壌には根粒菌がないため、初年度は豆類は実が入らないというのだ。[今年は駄目か!?]とあきらめかけたとき、根粒菌を売っていることが判明した。10a用でたったの600円(その時はそう思った)。転作政策の賜物と思われる。
表3 基肥の施肥一覧
5.雨と台風と戦いそして収穫 実も入り枝が重くなったころ、雨が降ると枝が根本で割れるものが出てくる。 台風で枝を揺すられると、根本が土と離れてこれまた葉が黄色くなる。これに気づいたのは2年目である。3年目は実が入って来た時期に、枝の両側にロープを張って枝が落ちないように支えてあげた。これは非常に効果があった。特に3年目は3品種ともに収穫時期直前に台風が上陸して、これからおいしくなると言う時に揺すられ根本が土と離れたが、1本も倒れることなく台風に耐えた。だが味は落ちた。 収穫時期の判断は最重要である。最もおいしく食べられる収穫日は3日〜4日間しかないのである。この時期を逃すとだだちゃと言えども2流品以下になってしまう。開花から40日前後の適期が良いとされているが、試食をしながら決断する。 おいしいと思っても明日はもっとおいしくなるような気がして、なかなか決断も難しいのである。8分の実の入りがおいしいとされているが、この少し早めの感じの時の食味は信じられないほどミルキーでつややかな甘みがある。試食する人しか味わえないと思うが、私はこの時期の味が忘れられない。 収穫適期が3日程度しかないから、収穫もまた大騒ぎである。人手の確保が大変で、社員は食べるけど、仕事があるので手伝う暇が取れない、しかし豆は待ってくれないのである。やむなく祖父母を駆り出したこともある。 収穫量は、表1に示したが、10a当たりに換算すると2年目、3年目では550s前後である。JA田川で指導している目標収穫量が450s/10aである。表1は選別しない量のため、選別すると2割程度減となるので、JAの目標量と同程度の収穫量と見られる。 6.さてその食味は 収穫しただだちゃ豆は当社社員約190名全員に配り、食して頂いた。各人の感想と私の評をとりまとめると次のような食味になる。 【1】早生白山:香りが良くうま味と甘みがバランス良く、少し物足りなさを感じながらも、「おいしい」と口にしている。 【2】甘露:うま味より甘みが強調された味で、甘みの種類は白砂糖のような感じ。 ビールには甘すぎると言う人もいた。 【3】白山だだちゃ:うま味がさらに増し、ほくほくした感じがあり、栗のような香りと甘みがある。 【4】庄内5号:炊きたてのご飯のような香りがあり、うま味と甘みがあり、甘みは白砂糖のような甘み。 【5】庄内7号:白山だだちゃの晩生の感じで、庄内5号と白山だだちゃの中間の味。 【6】じろさく:甘みは少ない目となるが、去りゆく夏を思いながら、他の品種とは違う別のうま味で食べる。 山形県では、白山だだちゃが有名すぎるせいか、内陸の人は、白山の他にこんなにおいしい豆があるとは知らない人が多かった。 私は当協会の技術委員を仰せつかっているが、2003年、2004年には技術委員会の時に持参し、技術委員の皆さんにも食べていただいたので、味のほどは直接伺ってもらうのも一考である。 だだちゃ豆をおいしく食べるには、収穫適期に加え、ゆで加減も大事であり、ゆですぎは豆を台無しにしてしまう。白山だだちゃは3分間、枝豆は4分間と報道されている。庄内5号で20パターンのゆで方実験をし、22人の食味結果では、塩分濃度4%のお湯で5分間及び7分間ゆでたものが最もおいしいという結果であった。さらに、莢の角をちょっとカットしてゆでるとさらにおいしいことが判った。 7.白山だだちゃのうまさは土のせいか 昔から、白山だだちゃをよその土地で栽培してもおいしくないと言われ、鶴岡の白山地区の土でないと駄目なのだとされている。2年目の収穫後に、営業所の畑土と実際に白山だだちゃを栽培している白山地区の畑土の粒度試験と土壌試験を行った。結果は表4に示すとおりであり、細粒分含有率とpHと窒素に大きな差がある。窒素の畑の歴史の差と考えられるが、これでも本場のだだちゃに負けないくらいうまい豆が出来たと思う。実は櫛引の枝豆は昔からおいしいらしく、私は、子どもの頃から自家製のだだちゃ豆を食べているので、これが普通の枝豆の味だと思っている。地元を離れて他の地の枝豆を食べると、何日たった枝豆だろう?と思うくらいおいしいとは思えないのが正直な所である。よその土地でうまいだだちゃが出来ないのは、私の考えでは土というより、気候と肥料の与え方にあると思う。特に庄内の風送塩が案外うま味に関係しているような気がしてならない。 表4 営業所と白山の畑土壌の分析結果
8.どこのだだちゃか(定義とルーツ) 「だだちゃ豆」という呼称はJA鶴岡の登録商標である。だだちゃ豆の明確な定義はなく、市内農家が作る「鶴岡だだちゃ豆生産者連絡協議会」が定めたものを「だだちゃ豆」と呼ぶ。現在扱っているのは、庄内1号、小真木、白山など10種類である。だだちゃ豆というネーミングの由来は、明治の頃、献上した豆について、「どこのだだちゃが作ったのか」と尋ねた酒井忠篤公と小真木に住む太田孝太氏とのやりとりのなかで、「小真木のだだちゃ」なる呼称が生まれたと広く知られている。 鶴岡市で開催された「枝豆サミット2002」で発表した山形大学農学部の江藤宏昌助教授(当時)の研究成果によると、だだちゃ豆のルーツは次のとおりである。 だだちゃ豆のルーツは茶豆で新潟県産の品種が庄内に入ったということであるが、鶴岡のおいしい枝豆は、DNAと文献で調べたところ、小真木の太田孝太氏がみんなに分け与えていた「八里半同豆」という豆らしい。江戸時代末期から大正初めまで、「八里半豆」が茶豆系統の豆で流行しており、全国の何カ所かに点的に広まった。八里半とは栗(9里)までは及ばないが栗ほどうまいという意味で、いかにも江戸らしい洒落っけのあるネーミングである。この豆が越後商人によって庄内にもたらされ八里半と同じようにうまい豆と言うことで「八里半同豆」と呼んでいたらしい。この中でさらに香りも良くておいしい豆を白山地区の森屋初さんが丹念に選種して育てたのが「白山だだちゃ豆」で現在に至っている。 新潟に黒崎茶豆という全国的に有名な豆がある。この豆のルーツは、明治末期に白山から黒崎町(現在の新潟市)の小平方地区に嫁にいった娘が持って行った白山だだちゃだという。 9.だだちゃ豆食べてマメに暮らそう 枝豆にはイソフラボンが多く含まれている。最近世界の多くの栄養学者や医学者は、大豆イソフラボンが心臓病予防、コレステロール低減、発ガン抑制、骨粗しょう症予防、女性の更年期障害の軽減に有効であるとして関心を寄せている。 現在研究中だが、白山だだちゃには血圧を下げる効果があるとされるアミノ酸の一種GABA(ギャバ)が他の枝豆の5.6倍含まれているらしい。 ビールに枝豆、夏の定番であるが、肴がうまくて飲み過ぎては、せっかくの「だだちゃ」の効用も台無しになるので、ほどほどに。 10.おわりに だだちゃ豆を食べたことがない方は、たかが枝豆、いくら特産とは言え、たいした違いはないだろうと思う方がほとんどだと思う。だだちゃ豆は、先ず炊きたての栗ご飯のような「香り」、「うまみ」、八里半豆と呼ばれたように栗のような「甘み」、この3要素が他の豆より秀でておいしいのである。一度食して頂ければ、枝豆の概念が変わるはずである。 この物語を読んで、これから食してみようと思った方のために、若干のアドバイス。「だだちゃ豆」と表示してあっても日にちの経った物や、まがい品もあるようなので気を付けて欲しい。だだちゃ豆の外観の特徴は、ほとんどが2粒莢、産毛のような茶色の毛が付いている、莢の真ん中(豆と豆の間)がくびれている、の3要素である。だだちゃ豆は品種にもよるが、農家から直接買っても1,300円/s前後であるから、先ず安い物は疑った方がよい。 なんだか、宣伝のような内容になってしまったが、勿体ないという発想から、地質調査屋が取り組んだ異業種の経験談である。最もうれしかったのは、道行く人に、「営業所きれいになったけの〜!」と言われたことである。今や規制緩和により建設業者の農業分野への参入が話題となっている。土地を有効利用し、かつ環境美観も達成し、美味も味わえる。利益は本業で追求し、こんなゆとりある観念で農業に取り組んでもらえないものだろうか。 「勿体ない」は今や地球の合い言葉である。勿体ないと思うことから、いい物・いいことが生まれるのである。これからも自作の「だだちゃ」で乾杯し、「勿体ない」という気持ちを忘れないようにしたいものだ。 平成17年7月 秋山純一 プロフィール 現在:日本地下水開発株式会社 営業本部 企画開発部担当部長48才 −有資格− 技術士(建設部門)−土質及び基礎(専門事項:基礎・地下水) 技術士(総合技術監理部門)−建設−土質及び基礎 測量士 一級土木施工管理技士 一級管工事施工管理技士 地質調査技士(現場技術・管理部門、土壌・地下水汚染部門) −外郭活動等− 山形県技術士会理事 東北地質調査業協会技術委員会研修部会長 (山形県さく井地質調査業協会技術委員会副会長 平成5年〜平成10年) 昭和31年11月21日 山形県櫛引町黒川に誕生 以後櫛引町にて幼少〜小学校・中学校を過ごす 昭和50年3月 山形県立鶴岡南高等学校 卒業 昭和54年3月 室蘭工業大学開発工学科(地盤工学講座) 卒業 昭和54年4月 現在勤務の日本地下水開発株式会社に入社 技術部に配属主に1年間は試錐現場の助手 その後、主に庄内管内の消雪工事の現場管理 昭和56年5月→平成2年3月 同社庄内営業所に配属 庄内管内の消雪工事の現場管理 及び地盤調査、水源調査等なんでも担当 平成2年4月→平成4年4月 本社 技術部調査部門を担当 この間死ぬほど調査業務に没頭 技術本部調査部(新設)に配属 平成5年4月 庄内営業所所長(平成6年度〜8年度は調査グループ長と兼務) この年技術士合格(建設部門) 平成6年4月 本社 事業部 調査グループ長 平成10年9月:TISAR98(第3回地下水人工涵養に係わる国際シンポジウム)、オランダにて論文「Simulation of the influence of recharged cold groundwater on temperature and level of surrounding groundwater 」を発表 平成13年4月→平成17年3月 本社 技術本部 調査グループ長 平成17年4月 本社営業本部企画開発部担当部長現在に至る |
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