日本物理探鑛(株)東北支店長 金井 亮33.仙台にきて3年目
今回、前広報委員長であった住鉱コンサルタントの佐々木仙台支店長が札幌支
店に御栄転になり、急きょ広報委員長を仰せ付かりました金井です。宜しくお願いします。簡単な自己紹介をさせて頂きます。 1.転勤家族 生まれは、昭和27年9月2日で、この戦争でマッカーサー元帥が失脚したといわれた朝鮮戦争の末期であった。本籍地は、群馬県碓氷郡(うすいぐん)松井田町上増田というところで、群馬県の西部に位置する。松井田町は、人口約18,000人で碓氷峠や横川駅があり、長野新幹線の開通に伴って信越本線の西側が廃止になるまでは横川地区だけで国鉄職員が数百人もいたという「鉄道の街」だった。しかし、現在は、避暑地で有名な隣町の軽井沢町と比べると、とてもマイナーな町にみえる。 実家は、江戸時代から農業をやっていたようだが、父親が国鉄マン(電気屋)で、いわゆる転勤家族であった。家族は私が2歳の時に祖父母を残してこの家を出て、埼玉県所沢市に1年間、東京都杉並区西荻窪に1年間、埼玉県大宮市に10年間、東京都品川区西五反田に11年間と、それぞれの地で過ごした。なお、この間、父親は、奥羽線の電化工事の際には仙台によく出張していたようで、当時の仙台の話をよくするが、私とはまったくかみ合っていない。 2.サッカー 小学生から中学生の頃は、埼玉県大宮市で、このころの埼玉県は、全国でも有名なサッカーが盛んな県であった。Jリーグの前身の「日本サッカーリーグ」が発足したのが中学生の頃で、部活の合間に大宮公園で試合があるときは見に行っていた。その後、残念ながら東京に引っ越してしまったので、多少私のサッカー熱は下がった。それでも、高校進学時には当時強かった城北か暁星に入れてくれと両親に頼んだが、「金が無いと」言われ、泣く泣く都立高校に入学し、私のサッカー人生は、ここで終了した。当時の都立高校(普通科)は学校群制で、必ずしも自分の希望する学校には入学できず、私は旧女学校で、女子の比率が多い高校に通学した。 3.大学時代〜入社 大学は、どういう訳か応用地学科であった。高校の地学の先生が、地形学の中野尊正教授の弟子とかで、教科書と極めて乖離した授業がおもしろかったのと、偏差値的な理由でこの学科を選択したと思う。卒業年度は、当時もっとも就職が有利で、卒業レポ−トも容易と思われていた測量研究室にいた。しかし、世の中は、トイレットペーパー等の買占め騒ぎがあった「石油ショック」の時で、大手測量会社を始めとして軒並み採用ストップの中、全く畑違いのこの地質調査会社に何とか入れてもらった。 4.新潟生活 入社後2年間は本社勤務で、その後24年間新潟勤務となった。新潟の北陸支店勤務では、立山や白山といった山岳奥地の電源開発に伴う地質調査や日本海側の各港湾の土質調査、磁気探査(危険物探査)など、いろいろな現場を経験した。 特に、新潟県中越地震で壊滅的な被害を受けた小千谷市内では約15年間にわたり地質調査、水文調査を経験した。この間調査現場では非常にお世話になった方も多く、いろいろな面で私自身大きなショックを受けている。 結婚したのは新潟で、当時は万景峰号が極普通に新潟港に入出港していた。一連の連れ去られ事件の噂は私たちがつきあい始めた頃から既にあったので、デ−トコ−スが新潟海岸のときは、二人とも何となく警戒はしていた。 5.辛かったこと 結婚してから約8年後に妻が病気になり、その後通院生活が約2〜3年続いたが、結局亡くなり、群馬の実家に子供を預けて、新潟での単身生活が続いた。このころが精神的・肉体的に最も辛い頃であった。仕事でも物件によっては、発注者との打ち合わせなどで苦しいこともあったが、本質的にはそれほど苦痛とは思っていない。 6.仙台生活 新潟の支店で定年かとほぼ決めにかかった2001年の2月末に仙台転勤の内示があり、子供も既に高校生になっていたので、私自身心機一転、この転勤話を受けることにした。3月初旬に仙台市東部の鶴ヶ谷にアパ−ト(新築のセキスイハウスで新婚が多い)を決めてワクワクしながら支店に戻ったところ、若い部下に「支店長、何でそんなところに決めたのですか」と一喝された。その後この周辺の地質図を見たところ、何とアパ−トは活断層(長町−利府線)の直上に位置するではないか!なるほどアパート周辺は、連続した急崖や不自然に発達した谷が多く分布している。そして、こうした話を忘れかけた一昨年の5月26日と7月26日に大きな地震が発生した。特に5月26日の「三陸南地震」は仙台市内が震度5で、泉区の南中山に移ったばかりだというのに支店の壁に3カ所の縦方向クラックが発生した。かつて新潟市内で体感した地震動は規模が大きな地震でも船に乗っているような揺れが多かったが、仙台のそれは高い周波数の激しい縦揺れであった。 7.趣味と実益と老後の準備? 年度末以外はほぼ毎週実家に帰ってお度末以外はほぼ毎週実家に帰っており、土日の二日間は農業をしている。古希を数年過ぎた両親が米作と群馬県特産のウメ栽培をしているが(群馬県のウメの出荷量は和歌山県に次いで、全国2位)、私は、こうした手伝いと、夏期は専ら草刈りである。この他は、休耕地で「ガーデニング」をやっており、亡き祖母から受け継いだ「ジャーマンアイリス」の育成に汗を流している。また、妻が大変好きだった「スイセン」も新潟から移植した分を含めると現在約20種類に増え毎年早春の庭を飾っている。特にジャーマンアイリスは、全国組織の「友の会」に入会しており、現在700株ほどになった。支店の庭でも約20株栽培している。全国でも規模の大きなジャーマンアイリス園は、新潟県十日町市郊外の当間高原、長野県青木村、上田市郊外の塩田平、青森県藤崎町で、宮城県では伊豆沼に規模の小さなものがある。 8.近 況 仙台での私は既に3年目に入ったが、地質調査業界は、大手といわれる会社でも受注量が低下している。政治の世界では「三位一体」などという言葉が流行っているが、公共事業の削減は調査・設計業界にも確実に影響している。一昨年10月の文藝春秋では、なんと「都道府県別の自殺率ワ−スト3が秋田県、青森県、岩手県の順で、7位に山形県」という記事が載っていた。しかし、こうした時代であっても仕事でも家庭生活でも常に希望を持って対処することが大切と思う。 フリルが良く入った青色のジャーマンアイリス(花の大きさ10〜15cm)カラーでないのが残念! ジャーマンアイリスは乾燥に強く、栽培が簡単である。7色あり、別名「虹の花」といわれるが、青、黄色、ピンクが多い。上下の花弁が異色のもの、絞り、花弁が縁取りされたものなどいろいろな組み合わせがある。 |
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