大成基礎設計(株)
東北支社 長名久井 亮24.みちのくの古都盛岡にて
大成基礎設計株式会社にお世話になり、一年余りが過ぎたところで、当協会に関してほとんど馴染みが無いのに、今回の件について返答をした事に、大変な事を引き受けてしまったと悩んで2
ヶ月以上が過ぎ去ってしまい、つくづく失敗したなと考えている毎日である。 小生、生まれは北海道士別市上士別町。(侍士別、他のしべつと区別して自分たちは言っている。) この地は父方の祖父が屯田兵の時に手柄があり、上官から戴いた所で、3.0km ×3.0km 位はあったと思う。ひとつ の部落を貰った訳で全て田圃であった。小、中学校時代は毎日、灌漑工(用、排水路、巾は20m 位)で、山女釣りに専念していた。 時代の流れで、地主解放に伴い、自分達は一区画、5 町歩の田が残っただけである。高校の時、男兄弟4 人(自分は4 男)が集まり、それぞれ全く異なる職業に就こうという話が持ち上がった。長兄は既に教育委員会に勤務しており、次兄は学校の教師で、三番目の兄は、土木屋の時代では無くなるだろうと薬剤師を目指し、薬学部に進んだ。自分は土木の方面に進む事としたが、赤、緑の色弱であったためにコンサルに進むしかなかった様に思う。丁度、この時期、団体職員であった父親の所に、盆暮れにゼネコンから商品券を受け取ったのではないかという事で警察の家宅捜索を受けた。証拠不充分ということであったと思うが、この家宅捜索が将来、公務員に自分は向いてないと思うようになり、卒業と同時に民間企業に勤務した。 大学時代は学生運動のストだけ参加し、ほとんど勉強はしなかった。自分は大学に入ったら、即戦力として活躍できるよう、専攻と卒論のテーマを選定して貰えるように教授に依頼した。結果、土質力学専攻、卒論は「アースダムの斜面勾配と安全率(安定解析)」と決定した。 就職は教授推薦という形で入社試験のない所に決定。自分達が社会に出た頃は、コンサル事業の初期にあたり、この時期は複合工事が多く測量、設計、調査が一体化しており、オールマイティーな人が望まれた時代でもあった。自分は、測量(道路、水路、地形測量)、設計(道路、水路、落差工、小構造物、砂防ダム、短い橋梁等)、調査では1000m 以上の深堀りなど種々経験した。 オイルショックも経験した事により、自分を助けるのは自分しかいない。誰も助けてはくれない事を身をもって体験した。どのような不況にも生き残れる人にならないといけない。自分と関わりのある若い人には技術屋で生きて行くのなら「毎日1 時間は本を読め、勉強し、資格を取得しなければリストラの対象にされる。」、「社員だから大丈夫という意識は棄てろ、まさかのさかを越えられる人になれ。」と言ってきている。今後もそう言い続けるであろう。 資格取得のため、勉強する事が嫌いだったので、仕事を取る方に方向転換した。その方が会社に対する貢献度が高くなると考え、営業マンになり現在に至る。 営業マンになって数年経って解った事があるが、仕事を断る気持ちを60 %、受注する気持ちを40 %持って事に望まなけサムライシベツればならないという理念に到達した。無理をすれば道理が・・・・・・。受注業者である我々にとって物事が裏目に出た時の事を考えると、相手(発注担当者)に相当迷惑をかける事になる。場合によっては担当者の将来を無くす結果にもつながる。「発注担当者を傷つける様な事は絶対にやってはいけない。」くりかえしますが何でも受注するのではなく断る気持ちが60 %、受注する気持ちが40 %をもち続ける事が大切になる。 発注担当者に会社の各人が信頼される様になることが受注の増大に繋がり、会社に対する貢献度も全員が高くなる。今も全員でこの考え方を踏襲し実行している。 <プロフィール> 出身地:北海道士別市上士別町 生年月日:昭和15 年7 月23 日 学 歴:昭和39 年 岩手大学農学部農業工学科卒 主な職歴:昭和39 年 東邦技術(株) 昭和48 年 東北国際地質(株) (昭和50 年 岩手大学農学部農業工学科、測量学非常勤講師) 昭和52 年 住鉱コンサルタント(株) 昭和58 年梶谷エンジニアリング(株) 平成14 年 大成基礎設計(株) 現在に至る。 趣 味:山女釣り、マージャン |
目次へ戻る |