協会誌「大地」No47

仙台文学館 村上 佳子

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53.瀬戸内寂聴の世界〜生きることは愛すること〜

文学展は美術展や歴史の展示に比べ、開催される機会はあまり多くはありません。それでも昨今は各地で興味深い企画展が開かれることがあり、私も時に足を運びます。今年7月、東京日本橋の高島屋で開催された瀬戸内寂聴展に行ってきましたので、今回は、寂聴さんについてご紹介したいと思います。

ご紹介したいと思います。老舗デパートの会場は、最終日にあたったこともあり、大変な賑わいでした。「瀬戸内寂聴の世界生きることは愛すること」と題するこの展示は、作家生活50年、そして、昨年の文化勲章受章を記念するものです。

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『瀬戸内寂聴の世界生きることは愛すること』(講談社)

京都嵯峨野の寂庵正門を模した入り口を抜けると、そこはもう寂聴さんのワールドでした。中庭風のアプローチには、赤ん坊の手のひら程の大きさの紙に寂聴さん手書きのお地蔵さんが書かれて型取りされた花びらがあしらわれ、導入の展示ケースには手作りの小さな土仏がニコニコと飾られていました。そして、奥行き広く展開される展示は、寂聴さんの作品世界と芸術家たちとの豊かな交流、さらに仏門へと向かった人生の軌跡と現在の心情が伺われるものでした。

今年で85歳になる瀬戸内寂聴(本名瀬戸内晴美)さんは、大正11年、徳島市で神仏具商を営む両親のもとに生まれました。高等女学校を経て東京女子大学に進みますが、戦時繰上げ卒業を待つように見合い結婚、夫とともに北京に渡ります。終戦の翌年、現地で生まれた長女を含め3人、命だけを持って徳島に引き上げてきます。やがて家族で上京、東京での暮らしが始まりますが、間もなくひとつの出会いが訪れます。北京でも面識のあった夫の後輩にあたる一人の青年でした。二人は恋に落ち、昭和23年、彼女が26歳のとき、「小説家になりたいので家を出させてください」と言って、4歳の娘を残して身ひとつで彼とともに出奔します。

しかし二人の仲は続かず、京都の友人宅に身を寄せて2年後には協議離婚、同人雑誌などに所属しながら小説家を目指す日々を送ります。昭和26年、29歳の時、雑誌の懸賞小説に入選して上京、徐々に作品を発表する機会を得ていきます。

そのような中で、またひとつの出会いがありました。文学への深い造詣がありながらなかなか売れない小説家の小田仁二郎。彼を知り、多くのものを学ぶうちに、やがてふたりはともに暮らすようになります。彼には妻子がありましたので、妻の家と彼女の家を半々に行き来するような暮らしが10年近くも続きます。さらに駆け落ちしたかつての恋人との再会もあり、小田の妻も含め複雑な四角関係の中で、作家・瀬戸内晴美はしだいに世に認められていきます。

やがて二人の男性とも別れ、自らに関わるすべてのものを突き動かすような厳しい情熱を持ってひたすら小説を書き続けます。

そして、昭和48年、51歳のときに出家を決意し、岩手県の平泉中尊寺にて得度、仏門への道を歩みつつ作家として更なる飛翔を続けていくことになります。

「出家の動機など、これこれですと誰が示せるだろう。私の生きて来た五十年の歳月のすべてに、出家の動機の仏縁は御仏の手でひそかに結びつけられていたのであろう。」(「念願成就」)

展示会場では寂聴さんのこれまでの生涯をたどった映像も紹介されていました。その中で語られていたのは、とにかく相手を愛して尽くしたということでした。最初の結婚のときも、見合い相手に気に入られたかったし、結婚が決まってからは女子大の寮でラブレターを書く毎日だったそうです。夫の赴任先の北京でも理想的な妻であり確かに幸福であったと回想しています。その後、敗戦後の故郷での激しい恋、また、文学を志す中での今でいう不倫の恋といった道を駆け抜けていきますが、その情熱は決して矛盾するものではないように思いました。単純に言いきることはできないのですが、あふれるほどの情熱に満ちている女性であるが故に、それ以外には選びえなかった行動だったのではないでしょうか。

自らの恋愛については、作品『夏の終わり』に描かれています。5つの連作からなるこの私小説作品は、昭和38年、第2回女流文学賞を受賞、瀬戸内文学のひとつの原点といえるものです。

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『夏の終り』(新潮文庫)

物語は、良識ある生活者の日常とは違った暮らしが展開していきますが、そこには、じめじめとした暗さはなく、いかんともしがたい情熱の中に、爽やかないさぎ良さと知性が感じられます。

寂聴さんの作品は、展示図録に載っている単行本だけでも400冊近くを数え、本当に意欲的な作家生活を送られています。女性作家の岡本かの子や田村俊子を取り上げた伝記小説をはじめ、源氏物語の翻訳や、数々の随筆、寂聴説法、世阿弥の後半生をたどる最新作の長編、そして人生の最後に贈る絵本・・・・多くの読者をひきつける著作はまだまだ書かれ続けていくことでしょう。そこには、真の芸術を見すえる確かな目線が凛と感じられました。

私は、自分は芸術家だと、いつも信じています。芸術家というものは、才能があるかないかで決まります。これはもう、残酷なくらいはっきりしていることです。一に才能、二に才能、三にも四にも才能です。世間で言われるような努力は、用をなしません。一日にこれだけ書いたとか、これだけの本を読んだとか、そうしたことは関係がないのです。紫式部は才能だけであれだけの大作を書きました。芸術は、才能だけで新しい世界を切り拓くからこそ純粋なのです。そんなことを言うと、おごりたかぶっていると、世間の人は思うかもしれません。でも、努力で生み出される芸術はこの世に存在しないのです。

寂聴さんのあの笑顔と快活な語りの中には、現代社会を生きる私たちへの確かなメッセージが込められています。

(「大切な人へ」)

「生きることは愛すること。世の中をよくするとか、戦争をしないとか、その根底には愛がある。それを書くのが小説と思う」

(文化勲章を受章しての言葉より)

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