協会誌「大地」No47

住鉱コンサルタント(株)仙台支店 小畑 英樹

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42.人物オーライ!?

はじめに

皆様、はじめまして。平成19年4月に住鉱コンサルタント(株)仙台支店勤務となりました小畑英樹と申します。また、5月より佐渡の後任として『大地』編集委員に参画させて頂くことになりました。重ねて宜しく御願い申し上げます。

早速ですが、今回、“人物往来”とのお題で紙面を頂戴致しましたので、恐縮ながら自己紹介をさせて頂きます。

生い立ち(小中高校時代)

昭和40年12月、兵庫県姫路市で生まれました。保育園、幼稚園、小・中学校、そして高校を姫路で過ごし、広島1年、愛媛松山で6年、同じく新居浜での16年を経て、今は杜の都仙台に妻・子供3人と暮らし始めました。

小学生の頃はとにかく走っていました。短距離とマラソン・・・。陸上クラブに所属し、市のリレーカーニバルや、正月早々には姫路城を周回するマラソン大会にも出場するなど、体を動かすことが好きな子供でした。

中学、高校は軟式テニスに明け暮れました。中学の時には姫路市の大会で3位に入賞するほどの熱の入れようでした。今は見る影もありませんが・・・。

高校は姫路城の真裏にあり、自宅からは自転車15分、汽車15分、歩き25分の道のりを3年間通いました。残念ながら通っていた高校には理科の教科に地学の選択科目はなかったものの(受験の時からわかってはいましたが・・・)、大学進学は地質の道を選び、入学を許された愛媛の地へ渡ることになりました。

地質との出会い

小学4年生の時、友達の家に遊びに行き、そこで拾った一つの石が、今の自分の生業に大きく影響したのだろうと思っています。

その友達の家の庭先には砂利石が撒いてあったのですが、その砂利石の中にキラリと輝きを放つ一つの石を見つけました。青色灰色がかった黒と白色のツートンカラーの石。その白色の部分に黄金色に輝く粒が二、三くっついていました。これは金(自然金)に違いない!と思った私は、それを人知れずズボンのポケットに忍ばせ、持ち帰りました。

何てことはない、ホルンフェルス化した細粒砂岩と方解石からなる普通の石コロ。この白色の部分(方解石)に黄金色に輝く粒が黄鉄鉱の結晶であったということを知ったのは、大学に入ってからでした。

「きっと金(自然金)のついた石だ!」(小学〜中学生)、「多分、金なんだろう・・・」(高校生)と思い続けたその石コロは、ガラス蓋のついた標本箱の中で綿に包まれ、仙台のマンションの書棚に鎮座しています。

小学生のときの“鉱物少年?”のときめきが心のどこかに潜在していたのか、大学では鉱物学講座に在籍し、ザクロ石(ガーネット)の産状・化学組成の記載をテーマに選びました。

四国には三波川変成帯が広く分布しており、別子銅山に代表されるキースラガー鉱床をはじめ、変成作用を受けたマンガン鉱床も数多く分布しています。対象はこの変成マンガン鉱床から産するザクロ石で、愛媛、徳島のマンガン鉱床のあちこちへサンプリングに出かけ、X線分析やEPMA(分析ができる電子顕微鏡のようなもの)を用いて、分析ばかりしていました。

そういったことから、就職は機器分析を行う部署をもった地元の会社を・・・と思い、某特殊鋼メーカーへ採用応募を行いました。特殊鋼メーカーから内定は頂戴したものの、「材料関係などの分析職

種への配属は約束できない・・・」との返事に戸惑いつつ、結局、大学院の二次募集試験を受け、3月に就職を辞退して進学することに決めました。これまた、一つの転機だったかもしれません。

さらに2年間、対象のザクロ石は変わらず、三波川帯(四国東部)の変成履歴の議論にまでテーマを深め、そして、好きなことをやり続け、また、当時のごく普通の学生生活?を過ごした挙げ句、指導教官に推薦状を書いてもらって、住鉱コンサルタントへ入社試験を受けに行きました。

四国時代

平成3年4月、四国支店(愛媛県新居浜市)配属となりました。学生時代には同じ愛媛で6年間生活していたこと、また、入社の前にはトレーニング?で四国支店でアルバイトをさせてもらっていたこともあり、比較的すんなりと社会人生活をスタートできたと記憶します。

平成3年4月、四国支店(愛媛県新居浜市)配属となりました。学生時代には同じ愛媛で6年間生活していたこと、また、入社の前にはトレーニング?で四国支店でアルバイトをさせてもらっていたこともあり、比較的すんなりと社会人生活をスタートできたと記憶します。

この中国地方某県での水文調査、新居浜を出て今治からフェリーで瀬戸内海を渡り、高速を走って現場や打合せへと、足繁く通ったものです。

知識も経験もない現場担当者・・・。打合せ資料に不備があり、伺った先の事務所の机を借りて資料の作成を行った事

もありました。その際、女性職員が「お疲れ様です」と言って差し出してくれた梨とヤクルトは今も刻銘に記憶に残っています。これがきっかけかどうかはわかりませんが、以後、7、8年間は東九州道、長崎道、山陽道、松山道、徳島道などの水文調査や水に関する仕事ばかりに関わりました。

その後、平成8年度の道路防災総点検をきっかけに、高知県内の国道32、33、55、56号の道路防災業務にも関わりはじめました。

その中で強く記憶に残るのは、国道55号での出来事。国道55号と言えば、高知市から室戸半島を経て徳島市へ至る、海岸線を走る風光明媚な海岸道路ですが、平成15年11月29〜30日の初冬に、室戸半島から徳島県境にわたるごく限られた地域で、約2日間(正味1日)で700mmを超える豪雨が降ったことです。降雨強度100mm/h前後の雨が2〜3時間続いたと記憶します。とんでもない雨の降り方でした。このため、山側の沢からは土石流・土砂流出があちらこちらで発生し、国道にあふれました。盛土で造られた道路海側部分は、kmオーダーで道路縦断方向に沿って亀裂が走り、悲惨な状況でした。

二度の海外業務・・・

平成6年にはアフリカに、同10年には中国に行かせてもらうことができました。

アフリカはマリ共和国での水の仕事。日本を出て全90日間の業務工程でした。

現地では「ギニアウォーム」と呼ばれる水を介した寄生虫病。これを予防するため、健全な地下水の取水を目的とした水探しの仕事(基礎調査)でした。

この「ギニアウォーム」は、蚊を媒介して産み落とされた卵入りの水を人間が飲むことで卵が人体内で孵化して成虫化し、血管内を移動して体の低い部分(ふくらはぎや足首付近)から血管、皮膚を破って体外に出てくる寄生虫病です。地表の溜り水を飲むことで、多くが感染する病です。地方田舎へ調査に行った際に、ふくらはぎに布切れを巻いている小学低学年くらいの女の子がいました。現地人通訳によれば、ギニアウォームが垂れ出てきているとのことでした。あの光景は今も脳裏に焼き付いています。生水が飲める日本の素晴らしさ、この貴重な資源は大切にしなければなりません。

現地での移動はもっぱら車。汽車なんて時間通りに来る、着くアテはない。飛行機(国内線)なんて怖くて乗れませんでした。ただ、昼間はバオバブの木を見ながら、時によっては、サヘルの原野を夜更けに車で走る。そのときのプラネタリウムでみるような満天の星空。よくよく見れば、人工衛星までも観ることができました。もちろん、マラリアの洗礼も受けました。マリを離れる10日ほど前に発病し、38〜40度の熱に3日間ほど襲われました。帰国後も3年間くらいは風邪を引く度に39度台の熱に苦しめられました。

二度目の海外は中国雲南省の山奥。山脈一つ越えればミャンマーという、これまた、仕事でもない限り、プライベートではこんな所へは絶対に行けないようなところでした。

機会があれば中国大陸の地図を御覧下さい。北京から飛行機で雲南省昆明(クンミン)へ。昆明からさらに飛行機で同省保山(バオシャン)に。そこからは車です。12時間以上かけて同省天騰(テンチョン)へようやく到着。ちなみに、大理石発祥の大理(ターリ)は昆明から保山の間にあります。

こちらは、銅、鉛の鉱床探査で、調査地はベース宿のある天騰から車で約3時間のところ。これをほぼ毎日、約20日間通いました。私は地質踏査担当。日本でいうところの森林基本図の数段精度の悪い地形図をもって、カウンターパート(地質専門の公務員みたいな立場の人)と共に鉱徴地の記載を行いました。会話はごく優しい英語と筆談です。お互いのつたない英語より、筆談の方が意思疎通ができたように思います。

踏査の合間に見つけた見栄えの良い幾つかの鉱物の類は、コッソリと鞄に忍ばせてお土産にと準備していたのですが、現地を離れる際の最初の空港で敢えなく没収。中国地質鉱山局が発行した試料持ち出し許可証も、現地の公安にはタダの紙切れでした。運が悪ければ、自分の体まで没収(拘束)されていたかも知れません・・・。

仙台にきて・・

仙台にきて4ヶ月が過ぎました。4月には風の強さに驚き、5月に入ってもまだなんだか肌寒い、6月は気温、湿度ともに凌ぎやすく、7月は太陽をみる機会が少なかったかな・・・(これが、やませ?)。

この間、季節の風情を感じつつ、東北6県にも一通り足を運び、土地勘を養いはじめたところです。そうこうしているうちに、仕事が一つ、二つと入ってきました。

ところ変われば・・・といいますが、私自身未経験の業務領域もあり、これからがまだまだ切磋琢磨の修行時代です。

最後になりましたが、この先、いろんな場所で、多くの方々とお会いできるかと思います。その機会を大切にしていきたいと思っております。ご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

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