協会誌「大地」No45

応用地質(株)東北支社長 岩崎 恒明

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03.仙台随想

はじめに

この度、中央開発(株)前東北支店長土生田氏の東京御栄転にともない、総務委員長を仰せつかりました。理事会での突然の御指名は晴天の霹靂でした。特に、財政状況が大変逼迫している現状を考えますと、その任務の重さに身が引き締まる思いです。とはいっても、肩幅以上の能力はありませんので、力を抜いて東北地質調査業協会発展のために些かなりとも微力を尽くす覚悟であります。皆様のご指導、ご鞭撻をお願いいたします。

生い立ち

昭和25年3月、なぜか雛祭りの日に、宮城県栗原郡志波姫村(現栗原市)で生まれました。その後、父の転勤で岩手県黒沢尻町(現北上市)、長崎市、東京都杉並区と移り歩き、昭和35年1月から、千葉県流山市に在住しています。

長崎時代は、原子爆弾の投下で多くの児童が犠牲になった山里小学校に通学しました。毎年、8月9日は全校登校日で、「あの子らの碑」に献花し、ご冥福を祈ると共に、不戦の誓いを新たにする行事が催されていました。自宅近くの浦上天主堂もまだ戦災を受けたままの状態で、瓦礫状のレンガ造りの天主堂が、青空に向かってくっきりと聳えていました。今思えば、私の子供時代は、ちょっと振り返ればすぐそこは戦争の時代でした。

小学校4年生の時、長崎から東京に移り、中学校、高校は東京で過ごしました。

東京の広さ、大きさには子供ながら驚いたことを記憶しています。ある日、母と弟と3人で、新宿に行った帰り、なぜか荻窪の我家にたどり着くことが出来ません。母がまだ小学生の私と弟を引き連れて、何時間も行ったり来たり、途方に暮れていたことを今でも鮮明に覚えています。原因は中央線の荻窪駅で、南口に下車すべきところを、北口に下車したために道に迷ったのです。母はどちらかというと、気位の高い性格ですから、交番でお巡りさんに、「私の家はどこでしょうか?」とは口が裂けても聞けなかったのだと思います。

大学は秋田大学鉱山学部を卒業しました。入学時は鉱山土木学科、卒業時は土木工学科でした。大学生活は至極快適で、学業はそこそこ、思う存分愉快な日々を過ごしました。特筆すべきことは、何と言っても嫁さんを見つけたことでしょうか。以来丸30年以上の長〜〜〜いお付き合いが続いている次第です。

会社生活

昭和50年4月に入社し、当時の東京事務所(現東京本社)に配属され、そこで14年間勤務しました。その後、北関東支店(埼玉県岩槻市)に5年、東関東事業部(千葉市)に2年、本社人事本部に9年間勤務し、平成16年12月から東北支社勤務となりました。

私は土木工学科の出身ですから、基本的には土質調査・解析・設計を主に担当してきました。中でも、特に思い出深い仕事は、昭和52年から丸10年間従事した、東京湾アクアラインの仕事です。これだけ長期間従事しましたので、とにかく愛着があります。ルート上の土質・地質分布やそれらの工学的特性等については、今でも空で凡そ説明することが出来ます。また、横浜のランドマークタワー基礎地盤の調査・解析も思いで深い仕事の一つです。岩槻、千葉時代は河川堤防の仕事に没頭しました。北関東地域は低平地である上に、利根川や荒川など治水上重要な大河川の他、中小河川が幾筋も流下していること、また、平成7年に発生した阪神淡路大震災で淀川堤防が壊滅的打撃を受け、堤防の耐震点検が始まるなど、河川堤防に関係する仕事が多かったせいです。しかし、私の技術屋としての歩みは、本社人事本部への転勤に伴い終焉を迎えることになりました。大変心残りではありますが、止むを得ないことと今では諦めております。

趣味など

趣味はと聞かれれば、さて何を挙げればよいのだろうか?という位多趣味です。多芸は無芸に通じるといわれますが、この論法で行くと、多趣味は無趣味に等しいということになります。中でも、ここ数年熱中しているものの一つが、「オールドノリタケ」と称するアンティーク磁器の蒐集です。「オールドノリタケ」というのは、日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミティド)が明治30年代から昭和10年代頃まで製造した、主として洋食器の総称で、以前は日本より海外での評価が高かったものです。特に、明治、大正期のものはハンドメイド、ハンドペインティドで製造されているせいか、手に取って見ると大変温かみを感じる品ばかりです。ほとんどの製品が、日本の外貨獲得のために、輸出用に製造されていましたので、今国内で入手できるものはほとんどが里帰り品です。そのようなわけですから、休日に時間を見つけて回るアンティークショップ巡りは、日常の喧騒を忘れさせる、心休まるひと時です。こうして蒐集したコレクタブルは、今では嫁さんと命の次に大切な宝物です。仙台でも何とか一客、一品でも良いから見つけ出してコレクションに加えたいと願っているところです。

終わりに

中学校に上がるか上がらない頃、橋幸夫と吉永小百合がデュエットで歌う、「いつでも夢を」という歌が、町中に流れていました。大ヒットし、私も今でも空で歌えるほどです。

「星よりひそかに 雨よりやさしく♪♪・・・・言っているいる お持ちなさいな♪♪ いつでも夢を いつでも夢を♪♪・・・・」。

この歌を聴くたびに、少なくとも10年程前までは、私たちが「いつでも夢」を持つことが出来る時代だったと思うのです。一生懸命やれば「明日は今日より必ず良くなる」という確信がもてたものです。今はどうでしょうか。社会情勢や環境が複雑に変化し、人の心の持ち方や価値観にも変化が見られ、必ずしも皆が「いつでも夢を」持てる時代ではなくなりました。我々が身を置いている建設関連産業や会社もしかりです。しかし、そのような時代だからこそ、改めてこの「いつでも夢を♪」と歌われたこの歌を心に刻み、日々を過ごしていきたいと考えている次第です。

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