岩手県立磐井病院  大江 洋文
53.医者の常識は世間の非常識(最終回)

 学3※)になると学部の臨床実習が始まります。大学病院の中央廊下の隅を、慣れないネクタイをしてうろうろしていました。春休みや夏休みには大学の関連病院に見学に行くことも出来ます。実際は見学していても何もわからないので、仕事の終わった先輩医師について飲み歩くのが常でした。当初は精神科に興味を持ち、精神病院に見学に行き、患者さんと遊んだりしましたが、落ち着きがなく気長なことが嫌いな性格なのですぐに方針変更。手術見学に行ったら、手術中にあんまり血が出るので気持ちが悪くなり、患者さんを運んできたストレッチャーに替わりに寝かされるという大失態。将来は内科系にでも行くしかないかなと思いましたが、大学病院での外科実習で、手術直後はぐったりしていた患者さんが日に日に元気になって退院していくのに感動をおぼえ、学者にはなれないけど勉強嫌いな僕でも、数をこなせば人並みにはなれるかなと考え始めたのです。外科実習の一環として、市内の病院での一般外科の実習を選択する時に、寝坊助だったので当時の実家の向かいにある仙台市立病院ならゆっくり出来るだろうという不埒な考えで一ヶ月お世話になり、朝から晩まで沢山の手術を見学し、血だらけ糞だらけの手術にも慣れました。大学病院とは違う雰囲気の良さがすっかり気に入り、研修先をここに決めたのです。面接や試験は一切なく、定員を超える場合は学生同士がくじ引きなどの自主調整で決めるようなのんびりした時代でした。卒業試験は連敗続きで時間がなく、国家試験の勉強は分厚い問題集にすべて目を通すことが出来ず、3回受けた模擬試験もすべて合格点に達せず、心電図の問題が出たらアウトという背水の陣で臨み、自己採点で約6割と微妙なところで、発表までひやひや物でした。合格発表後、外科部長に挨拶に行った時に、一緒に勤めるはずだった東京の大学出身の同期生はいませんでした。試験後に問題をあれほど完璧に解説していた彼が落ちたということで、自分の悪運の強さにあきれました。もちろん今でも心電図は不得意です。

 研修医時代は自分なりに一生懸命やったと思います。月に日直・当直あわせて10回以上やり、ほとんど病院で寝泊りしていました。夏休みや年末年始もなく、特に1年目は1日も休みませんでした。夜勤の看護婦さんに同情されて、夜食を分けてもらうのが常でした。手術後の患者さんの経過が悪く亡くなった時には、手術しなければもう少し長生きできたのでは、と家族に食ってかかられ、いや、あの、手術しなくてもいずれ死にますから、と言って火に油を注いだり、ずっと具合の悪い患者さんに付きっきりの時、先生寝てないんじゃないのと逆に心配されたりしました。まさに病院で暮らして患者さんから元気を貰い、勉強させて頂いたと思っています。

 仙台市立病院には3年間お世話になり、先輩たちの後を追うように東北大学の第二外科に入局しました。当時は食道、血管、移植・甲状腺、乳腺、小児外科の各診療グループがあり、それぞれを数ヶ月ずつローテーションしましたが、できるだけ患者さんに接していられて臨床のできる体育会系の食道班を選び、大学病院時代は食道を中心とする消化器外科の診療に明け暮れました。一時期は博士号(学位)を取得するために心ならずネズミを使った実験などもしたこともありましたが、幼い長男が、お父さんは博士になって僕にロボットを作ってくれるんだ、と信じていたのを思い出します。大学病院には大学院研究生という身分で学費を払って所属させて貰って朝から晩まで診療し、食い扶持は関連の病院への短期出張で稼いでいました。週末もいろいろな病院の当直に出かけて経験をつんだものです。大学に集まる医者は玉石混交で、地方の病院にもキラ星の如く輝く名医が沢山いることを知った大学病院時代でした。

 その後、医師生活の半分以上を一関で過ごすことになりました。医療に対する世間の目はますます厳しくなっており、医療事故が新聞・テレビを賑わさない日はないくらいです。世の中も経済中心のぎすぎすした嫌な雰囲気になり、とりあえず公務員・医者(病院)・警察官・NHK を叩いて溜飲を下げるような風潮になっています。責任者として苦情処理や謝罪で疲れ果てることもままあります。人間は誰でも必ず死にます。そのやりきれない気持ちを医師や病院を責めることで癒そうという歪んだ気持ちを持つ人の何と多いことか。つらい時、どういう訳か思い出すのは亡くなった患者さんたちのことです。研修医の時、先生のしてくれる注射が一番痛くなかったと、亡くなる何日か前にしわくちゃの千円札をちり紙に包んで僕の手に握らせてくれた癌末期のおばあさんがいました。俺でも喜んでくれる人がいる、でも何もできない、医局に戻って涙が出ました。

 年間の自殺者3万人超、交通事故死1万人弱、その中で医療事故で亡くなる方は2万人という試算があるそうです。それでも、きちんと診断がついて、治療を受けられる日本の人たちは僕は幸せだと思います。インドでは地べたに寝転んでただ死ぬのを待つだけの人を沢山見ました。医療事故で死ぬのも、野垂れ死にするのも同じ死に変わりありません。仕事柄、悲惨な死に方を沢山見てきました。家族に見守られて、穏やかにというのはほんの一部に過ぎません。世間の常識と医者の常識が一番乖離しているのは死についての受け止め方なのかもしれません。

 今回で最終回だそうです。つまらない駄文に最後まで目を通してくれた大地の読者の皆さんと、編集者の皆さん、ありがとうございました。

 ※)医学部は6 年制です。当時は教養部の2年間を教1、教2学部にあがっての4年間を学1、学2、学3、学4と読んでいました。もちろん教養部1,2年、医学部1,2,3,4年の略です。

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