岩手県立磐井病院外科  大江 洋文
57.医者の常識は世間の非常識

 前回の最後に、皆さんからの質問を募集しました。いくつか集まりましたのでそれについてはおいおいお答えしていきますが、何せ野外科医者なもので、あまり専門的なことは勘弁してください。

 さて、表題は、僕の母校仙台一高で長年言い伝えられた格言を参考にしたものです。田舎の進学校の高校生が恥知らずにも自分を一角の人物と思い込み、実は周囲からは顰蹙を買っている世間知らずをいさめた言葉と、当時は自分なりに理解していました。これから書くことは多分に自戒の念も込めてあります。あるいは自分だけこうなのかもしれませんし、医師の悪事ばかりが取りざたされる昨今においても、立派な医師が僕の身の回りにもたくさんいることも確かです。

 今回は皆さんには余りなじみのない医者の作られ方というより、僕の医学生生活を書いてみます。いわば大江版“ヒポクラテスたち”(注1)のようなものです。

 当時と現在では医学部のカリキュラムに大分変化がありますが、できるだけわかりやすくいきたいと思いますのでしばしお付き合いください。

 僕が大学に入学したときは医学部の6年間(注2)のカリキュラムのうち、最初の2年は教養部で他学部の人たちと交流がありました。この2年間は医師としての教育という意味ではまったく無意味な期間でしたが、受験勉強ばかりで味気ない高校生活から開放されて、ようやく世間に目が向けられ、人格形成の面では非常に有意義な期間だったと思います。

 ただ、やはりたがが外れてしまうことで、マージャンやパチンコに入れ込んで留年する者、いかがわしい宗教にのめりこみそのまま退学していった者、医学部には大分少なかったのですが学生運動に参加して学校に来なくなる者など、同級生にも何人かいました。

 東北大学は学生運動のメッカで、入学の年(1978年)に三里塚空港(当時の学生は成田空港とは言いませんでした)管制塔占拠闘争があり、実力闘争で開港を阻止したということで、川内のキャンパスはヘルメット学生で意気が上がり騒然としていました。僕は運動にはつかず離れずで、集会などには付き合いでたまに顔を出すものの、高校時代からやりたかった山登りのサークルに入り、山のほうに夢中でした。

 現在もそうですが、医学部には全学の部活動とは独立した形で独自のサークルがあり、ほとんどの運動部が揃っていました。他学部とはカリキュラムが違うためという表向きの理由でしたが、高校時代勉強だけしかしていなかった者や、長期の浪人(注3)で体力的に自信のない者が集まる2軍の集団というのが本当のところで、他学部の学生にはあまり評判が良くなかったような気がします。僕の所属した登山のサークルは、看護婦・放射線技師・検査技師の卵の学ぶ医療技術短期大学(現在は4年制の医学部の保健学科になりました。)と一緒に活動しており、危険の少ない無雪期のハイキングが中心でした。それだけではあきたらない僕は高校山岳部のOB会にも入れてもらい岩や雪にも手を出すようになり、いくら言っても聞かない息子を親があきらめ始めた教2の時は年間60日近く山に出かけていました。

 現在のカリキュラムはこの教養部の2年間に学部の講義を持ってきて、人体解剖実習も1年生から開始します。鉄は熱いうちに打て、暇を与えて医師になるというモチベーションが下がる前に専門教育を導入しようというわけです。これを称して教養部改革やアーリー・エクスポージャーといわれました。後輩に聞くとカリキュラムはきつきつとなり、サークル活動も時間的に余裕がなくなったようです。確かに覚えるべき知識の量は当時と現在では雲泥の差があり、現在では6年間でも足りないのかもしれません。しかし他学部の学生との付き合いも更に希薄になり、まるで医師養成の専門学校のようになりました。僕は教養部では当初の意気込みでは一般教養を身につけて人間性の豊かな医師を目指すために、法学などの文科系の授業も学び、高校時代苦手だった物理や数学も克服しようとたくさん履修カードを出しましたが、もともとまぐれで入ったような大学ですし、シュレジンガーの波動方程式などちんぷんかんぷん、微分積分はお決まりの微かに分かる、分かった積もりになるなどで履修放棄を重ね、低空飛行でようやく学部に進学、大学病院のある星陵町での生活が始まりました。

 この年の1月、大人になるのが嫌だった僕は山の会の仲間と早池峰に3泊こもって成人式を欠席、足の指に軽い凍傷を負う厳しい冬山で現実逃避をしていました。ふもとの集落に何日も放置してある宮城ナンバーの乗用車を心配した地元の方がわざわざ警察に連絡をしてくれたため、仙台に戻ったら大騒ぎになっていたことを覚えています。

 学部にあがると医学部名物の人体解剖実習が始まります。僕たちは4人で実習用のテーブルを囲み、痩せたおじいさんと半年にわたってずっとお付き合いすることになりました。最初は食事ものども通らない同級生もいましたが、次第に慣れてくると遅れを取り戻すために実習室に一人で夜遅くまで残る者も出てきました。腕の神経の解剖の際は、ご遺体の腕を自分の肩に乗せて視野を展開していた者もいました。実習後も学食で平気で飯を食いますし、体に染み付いた防腐剤の匂いは他人に指摘されても気がつかないくらい体が慣れてきます。骨学の実習のために各自に一体分の実際の人骨の箱が渡されました。これを家に持っていって、手にとって勉強するのです。ご遺体の中には、首に縄の跡のついているものもありましたし、骨はどこか発展途上国の身元不明の遺体を処理して売買されているということも噂で聞きましたがそのような詮索をしてはいけないような厳かな雰囲気が解剖学実習にはありました。今でも解剖実習室の入り口には“ここでは死が生に手助けすることを喜んでいる”という意味のラテン語で書かれたプレートがかかっています。すべて一般の人が決して目にすることはない異様な体験でした。すでにここで医学生は一般社会と隔絶されるのです。

 解剖学実習と並行して、生化学や生理学の実習も行われたはずなのですが、解剖学実習の強烈さに埋もれてほとんど記憶がありません。カメの甲羅をはずして心臓の実験をしたのはおぼろげながら覚えています。学1のうちに解剖、生化学、放射線基礎、生理学などの基礎系の試験がありますが、再々試までのうちに通ればいいので、1回目は出席、2回目は様子見、3回目でようやく勉強して合格というパターンでした。優等生の約2.8倍くらいは試験を受けたと思います。追試・再試は土曜の午前に行われることが多く、このころは近場の日帰りの山にしか行けませんでした。できんボーイたちは土曜クラブと称して、試験後学食で答えあわせをして一喜一憂するのが常でした。このときの仲間からも優秀な医者が誕生しているのですから、不思議なものです。

 学2になると病理学や後半には臨床系の講義も出てきて俄然医学部らしい内容になります。他学部が就職活動や卒論などと忙しいのとはうらはらに、医学部では花の学2といって授業をサボりさえすればいくらでも自由を謳歌できる期間が訪れます。(当時は講義の出席を取るなどということはほとんどありませんでしたから。)先輩の中には山に100日近く行くつわものもいました。僕は留年勧告を振り切って進級したので、前年の試験の単位を取るのにあいかわらず汲汲としており、授業には専念できませんでした。

 このため学2で取るべき病理学の単位は翌年、なんと5回目の試験で通るというありさまでした。京都から来た新任の教授に、こんなに勉強しない学生は初めてだといわれたのは僕らのグループですし、最後まで試験に残った学生にはその教授が“立派な医師になってください”と一人一人の教科書にサインしてくれました。病理学の試験は筆記もありますが、顕微鏡で病的な組織の診断をつけるものもありました。顕微鏡を見ると目が回るので病理学の実習は苦手でほとんどサボっていた僕ですが、試験の際は実習に使ったプレパラートで出題され、しかもノート持込が可だったので、プレパラートの形を記憶して解答したこともありました。いわく、マヌケ犬は膵臓がん、クジラのあくびは悪性リンパ腫などです。

 この学年のときはクラブの部長をさせられました。医学部にも厳しい山登りを追及したいというグループがあらわれ、僕の部からも大量のメンバーが脱退していったことがあり、悲しい思いをしました。女性パーティーのリーダーで短大の可愛い後輩達と夏に南アルプスに合宿に行ったのがいい思い出です。

 学3・4のいわゆる医者の卵らしい実習生活を経て、研修病院時代のことについては、怠け医者の回顧録など読みたくもないと皆様からのブーイングで連載中止にでもならなければ次回にすることにいたしましょう。

【注1】
自身が医学生だった大森一樹監督が医学生の生活を描いた1980年のデビュー作、若くして自ら命を絶った古尾谷雅人、個性派俳優の柄本明、元キャンディーズのランちゃん伊藤蘭などが出演、古いですね。

【注2】
ご存知の通り医学部は6年制です。当時は教養部の2年間を教1、教2学部にあがっての4年間を学1、学2、学3、学4と読んでいました。もちろん教養部1,2年、医学部1,2,3,4年の略です。

【注3】
医学部は長期浪人が多く、2浪、3浪は当たり前、僕の学年では6浪が最高でしたが、他大学卒業後社会人を経て再入学した方などもいました。僕の下には11浪という猛者も居たそうです。彼らは長老会というのを作り、医学部のご意見番として若手には一目置かれていました。僕はこっそり出身地で八幡四郎とか築館六郎とか呼んでいました。


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